アインシュタインによれば、この世界の物理的対象は人間のいかなる恣意的行為に関わらず、客観的に実在するものでなければならない。しかし、ボーアを筆頭とするいわゆるコペンハーゲン派によれば、微視的世界においては観測という行為が対象の物理的存在に関わってくる。
たとえば、一個の電子がどこにどのようにあるのかという場合、その物理的性質はその電子固有の先天的な姿として観測されるのではなく、逆にその観測という行為そのものが電子の姿に不可避に反映してしまう。つまり、端的にはその電子のありのままの姿を観測することは原理的に不可能であって、そこには常に観測による予測できない変化が現れてしまうのである。そうすると、この電子のありのままの姿が永久に観測されない以上、その存在は観測という行為を通じて主観的にしか認知されないことになる。そして、その電子の存在そのものは確率的な方法でしか表現できなくなってしまい、その確率概念が非決定論的解釈を導くのである。
すなわち、量子論は微視的世界の観測において、不確定性原理という制約を課すことによってその客観的実在そのものを放棄させ、代わってそこに非決定論的確率概念を打ち立てたのである。そしてここに至り、量子論は客観的実在の放棄に伴い、電子などがいかにして波動性と粒子性を併せもつのかといった、その具体的構造の追及をも断念放棄するという道を選んだと言うべきである。
しかし、アインシュタインが最後まで一貫して否定し続けたように、その非決定論的解釈は無効である。
なぜなら、量子論においては電子の波動そのものが一つの電子そのものであると考えられ、いわば波動と粒子は同一のものである。ところが本論においては、両者は相対的に逆比例する関係であって、これはその逆比例の関係においてそれぞれ区別されるものでなくてはならない。そうすると、逆比例で区別されるものを、無理やり一つの存在に結び付けようとすれば、そこには確率波といった不合理な物理概念が現れざるを得なくなるのは当然である。
そこで、たとえば電子の波動であるが、これはいかに波動とは言えども、通常の概念の波動を述べたものでないことは確かである。つまり、ド・ブローイの物質波にせよシュレーディンガー波にせよ、これは当初から三次元的に広がっている空間を近接作用で伝播していくところの、従来的な進行波を述べたものではない。
ならば、この波動とはいかなるものであるかと言えば、これはあくまでも電子の周囲に形成された電場(拡張場)そのものが現す能動的な状態(回転)を表したものとして解釈される。したがって電子の波動は、かつてボルンが主張したような確率の波動などではなく、これは電子の周囲を取り巻いている「場」という特定の空間に、実際に起きている現象なのである。
ところが量子論においては、電子の周囲に展開されているところの、その電場という特定の空間をわざわざ量子化して、仮想光子という現実には決して観測されることのない粒子的何者かに仕立ててしまうのであるから、これこそ確率的にしか存在し得ないもはや空想的粒子と言わねばならない。
🔹《ちなみに、今日の標準模型において提示されるレプトン以外のすべての粒子(すなわち陽子・中性子・中間子などの構成要素としてのクォークや物質粒子に質量を与えるとされるヒッグス粒子)、あるいはまた、強い相互作用としてのグルーオン、弱い相互作用としてのWボソン・Zボソン等々は、本論においては一切不要であり、理論上もなんらの関係をもたない。》
ところで話は重複するが、10章でも述べたようにディラックの相対論的量子力学によれば、電子は一個の点粒子であり、ローレンツの電子論では点電荷として扱われる。この場合、大きさのない電子の自己エネルギーは無限大となるが、電子に有限な大きさを与えて考えれば問題は解消する。
ちなみに、ニュートン力学の質点は、運動物体を数学的に記述する際の理想概念であるから、現実には広がりを有さない物体などは存在しないはずである。そこで、かの湯川博士は、微視系の電子にしても実際にはその内部構造を考える場合には有限な大き持つべきものと考え、いわゆる「無限大の困難」といわれる問題に関連して、非局所場の理論を展開した。ところが、非局所場の理論は、当初は二つの時空点の関数を扱うといった、あくまで従来の局所場の概念には抵触しない数学的手法を用いて展開されたのであるが、いずれにしても大きさを有する素粒子像は、量子論的にはある程度までうまくいっても、相対論との整合性においては甚だしく困難を極めたのである。
すなわち特殊相対性理論によれば、互いに離れた二点で起こった同時的事象はそれぞれ独立したものでなくてはならず、その二点の一方で起こった出来事が他方に起こった出来事に影響するというような因果関係は一切あってはならない。
この制約は、相対論の「いかなる信号・情報の伝達は、光速度を超すことはできない」という考え方からすればあまりにも当然なことであって、同時に起こった出来事が互いに独立でないとするならば、決して犯してはならないはずの因果律が成り立たなくなる。したがって、非局所場理論において電子になんらかの有限な広がりを与えるという場合にも、その広がりとは結局は二点間の隔たりの大きさのことであるから、そこには単に独立した二つの時空点があるだけのことということになり、この切り離された二つの存在をあえて数学的方法で関連づけたとしても、結局それは因果律の崩壊につながってしまうのである。
そうすると、いかに微視的世界の電子であろうと実際には有限な広がりを有するはずである、という当初のまったく当然な発想は、結果的には上記の相対論的制約において否定されるということになる。
しかし、この相対論的制約は、本論においてはもとより無効である。なぜなら、ある系内の離れた二点で起こった同時的事象は、これを別の系で観測(推測)したとしても不変に同時なのであって、同時刻の相対性は当初から成立していないからである。
したがって、本来の固有な大きさを有するべき電子の内部構造や、あるいは「場」などの、その広がりそのものを前提とする対象の物理的記述に際しては、その離れた二点は当然連続的につながっているものでなければならず、これを無理やり独立した二点に切り離したり、あるいは場の力をそのまま一個の粒子として量子化したりするということは、その広がりにおいてこそ記述されるはずのものを、広がりを有するものではあってはならない力学的対象に、すり替えてしまうということに他ならない。
そうすると、このすり替えによって導出される不可解きわまるその粒子※、あるいはまた電気素量の2/3や1/3といった電荷量をもつとされているクォーク等々、それらは今日の物理学の発展において、不気味な進化を遂げているものと考えざるを得ないのである。
※{先にも述べたグルーオンやWボソン、および重力子などのゲージ粒子。}
いずれにしても、総ずるところ現代物理学には、その論理的基盤の定かでない上記の相対論的制約と、客観的実在を否定する量子論的制約が隠然として横たわり、そこから展開される素粒子論とその物理的世界像は、きわめて抽象的、かつあまりにも仮想的に過ぎるものと言わざるを得ないのである。
そして、それら二つの制約の理論的背景の不確かさは、もはやその端緒をニュートン力学の質点概念にまでさかのぼるべきものであって、そこにはニュートン自身も困惑したであろう、より哲学的な、観測そのものに関する問題がすでに提示されていたものと推定される。
そこで、このまったく根本的であるところの観測の問題が物理学的に説明され、その制約が取り除かれるとき、非局所場の理論は新たな展開を期して蘇ることになり、量子論唯一の疑問とされてきた無限大の困難も、ここでようやく解消することが可能になると同時に、これまで暫定理論として位置付けられてきた繰り込み理論には、新たな息吹が吹き込まれるはずである。そして、その新たな物理的世界像こそは、アインシュタインが一人最後まで模索し続けた、客観的実在の物理世界そのものであるものと思う。
以上