かつて熱現象は、『熱素』というその重さはゼロと考えられる流体状の物質によって説明されていたことがある。やがてベルヌーイを創めとして熱の分子運動論が論ぜられるようになると、学者はミクロな分子の運動がいかにしてマクロな熱現象を引き起こし得るのかを考えるようになった。その際に問題となったのが、熱力学の第二法則が、はたして力学の範疇だけで説明され得るのかである。そこでかのボルツマンは、ミクロな分子の力学的過程以外に、多数の分子の位置や速度に関する統計確率的な分野の導入が不可欠であるとして、ここにボルツマン方程式から導かれる、H定理を打ち出したのである。
この理論は、当時はいまだ認められていなかった原子論的立場から徹底した考察が成され、エントロピーがいかにして一方的に増大するのかをよりよく説明した。しかし、これらを前述の観測における二つの視点の不確定性な構造によってあらためて省察してみると、そこにはまったく根本的な場面での矛盾が潜在していると言わなければらない。なぜなら、そもそもボルツマンの目指した「熱現象は、あくまで個々の分子の力学的運動から説明されなくてはならない。」とするその立場とは、まぎれもなくよりミクロからの視点の観測だからである。
すなわち、熱ないしはある特定の温度とは、よりミクロからの視点によるところの無数の可逆な力学分子の運動によるものであるならば、一方の非可逆に進行する熱現象は、よりマクロからの視点によって見いだし得る現象のはずである。この場合に、その巨視的場面で見いだされるところの熱あるいは特定の温度というものは、そのより広範な周囲の温度が同一であるならば、もとより当初の特定の温度という指定は意味をなさず、すなわちそれはよりより大きな空間の一様な温度に他ならない。
この一様な温度とは、それがいかに巨大な系であろうとも、一様である限りはいかなる熱現象は見いだすことはできず、ひたすらそこに有るのはより多くの分子であり、実に膨大な数の分子のランダムな運動だけなのである。ということは、よりミクロからの視点によれば、熱とは確かにミクロな分子の運動にその起源をもつものではあるが、それらがいかに巨大な空間に多数集合しても、それが一様であればそこにはなんらの非可逆な現象は起こりえず、いかなる熱的なエネルギーも観測しえないのである。
なぜなら、そもそも非可逆な過程をたどるところの熱現象というものは、一様なより大きな系の中に、非一様なその周囲とは異なる温度が出現している場合の、その非一様性そのものを指すからであり、そこに初めてこれから増大するであろうエントロピーの、より小さな状態が見いだし得るのである。そしてより大きな一様な系と、その中の非一様な局所的部分として区別される特定の温度は、より大きな一様の系の中で、非一様な存在として対比され、また区別されるものであり、これはよりマクロからの視点によってのみ見いだし得るものなのである。
したがって、統計確率がどのようなものであれ、個々のランダムに運動する分子が集合したらどうなるのかというよりミクロからの視点では、いかなる場合にも非可逆過程が観測されるはずがなく、もとよりこの視点には非可逆という概念すらもないといえる。そして、ミクロな力学分子の立場から非可逆な熱現象を語り得たとするならば、それは無意識になされる視点のすり替えであって、いわば森の中の観測者がその視野のままで、自分には個々の木々は勿論、それら全体の一つの森としての姿も同時に観測することができると主張しているようなものである。
この熱現象の問題においても、いかにその観測が同一の存在に対するものであっても、その視点が異なればそれは可逆にも非可逆にも観測されるわけで、問題はその観測の際の視点そのものが有するそれぞれの性格であって、その対象自体が相克する二重の性格を有するわけではない。
ということは、それが可逆であるか非可逆であるかは、その観察における視点そのものが先天的に決定しているのであり、仮に可逆な力学分子が集合した際にその圧倒的な分布の確率が実現してそれら分子が一様に混ざり合ったとしても、その視点がよりミクロからの視点である以上は、いかなる非可逆現象そのものを見いだしたわけではない。
すなわち確率は確率であって、それは常に推定の域を出るものではなく、その推定が実現した姿を見いだすためには、よりミクロからの視点をよりマクロからの視点に切り替えねばならない。その際に、よりミクロからの視点だけで非可逆現象をも見いだしたとすれば、それは視点のすり替えに他ならないのである。
一般に物理学においては、上記のような問題は、もはや論理学的であるとして無縁のものと考えられがちである。しかし、結果的にミクロな分子の力学運動とマクロな熱現象の二者は、その観測において不確定性の関係にあるわけで、そこには必然的に観測そのものに関する問題が関わってくるのである。
そしてこの問題は、少なくとも熱現象を論ずる際にはきわめて重要であるのみならず、むしろ事物の観測という事柄がどのような具体的構造を有するのかを知らずしては、いかなる物理理論にも、まったく根本的な場面での矛盾が潜在しているものと考えられるのである。
そこで次に、力学の基本的な概念に立ち帰って、そもそも物体の運動の観測とはいかなるものであるかを考えてみる。