第20章【段階的座標系と重力の存否】

 複数の円運動光子が一つの電子を形成し、その電子2個が対となってさらなる円運動を行い一つの陽子を形成するというのは、光子・電子・陽子の三つの粒子は、よりミクロからよりマクロへと段階的に成り立っていることを意味する。ということは、それら三つの粒子を記述しようとする際の座標系についても、やはりよりミクロからよりマクロへと段階的に成り立っているものと考えられる。

 たとえば第11章で述べたように、第1座標系において複数の光子が円運動を行うとき、その円軌道は無限に収縮するが、続く第2座標系においてはそれら複数光子の全体である一電子は一定の大きさを持つと同時に、無限に拡がる拡張場を持つものとして見いだされる。

 ならばそこで、第2座標系において2個の電子が対となって円運動を行うという場合には、その一対の電子は円環状の回転拡張場を纏ったリング状電子となって回転運動を行いながら無限に拡張するが、その全体である一つの陽子は、より高次な段階(よりマクロな段階)に想定される第三の座標系において、一定の大きさを持つと同時に、無限の彼方にまで作用する収縮場を持つということになる。

 ※{右下図のように、円環状の回転拡張場を纏った一対のリング状電子(無限膨張する陽子)を、略して

   円環状対電子と記すものとする。}

 第1座標系において円運動を行う光子は、1x軸1y軸が構成する2次元面の円軌道に沿って右回りに変位すると同時に、その円軌道の収縮にともなって中心点に向かっても変位していることになるが、1z軸方向についての変位は一切ない。ということは、このような1x1yの二次元面でのみ変位する複数光子を記述しようとする際の第1座標系は、平板状の平面的な座標系でよいということになり、一定不変な電子を記述する第2座標系においては、その平面的な第1座標系そのものが、みるみると拡がる拡張場(電子の電場)そのものに姿を変えて現れているということができる。

 また第2座標系において、無限に拡張する円環状対電子(円環状拡張場を纏った一対のリング状電子)であるが、この場合の対となったリング状電子については、下図2z軸2y軸が構成する2次元面でのみ拡張するが、それを包み込むように展開している円環状拡張場は右図のように2x軸も含めた三次元上の拡張を為している。


 ということは、第2座標系における円環状対電子は、三次元上にみるみると拡張し続けることになるが、続く第3座標系においては一定不変な大きさを持つ一個の陽子として現れていることになり、この場合にかつての第2座標系はその陽子の中心点を目指して、みるみると吸い込まれるかのように展開する収縮場に変貌しているということになる。

 したがって、第3座標系における一定不変な大きさの一個の陽子とは、第2座標系におけるみるみると拡張するかつての円環状対電子のことに他ならず、また第3座標系における陽子の収縮場とは、かつての第2座標系そのもののことに他ならないということができ、もっとも基本的な光子の円運動は第1座標系において、拡張場を放つ電子は第2座標系において、また収縮場を持つ陽子は第3座標系において記述されることになる。

 この場合に、光子の円運動を記述する第1座標系は第2座標系における電子の拡張場へと姿を変えて現れ、みるみると拡張する円環状対電子を記述する第2座標系は第3座標系における陽子の収縮場へと変貌して現れているのであるから、それら3種の粒子を記述する三つの座標系は、よりミクロからマクロへと埋め込まれ積み重なりながら、段階的に成り立っているものといえる。

 そうすると、この段階性においては、第1座標系は電子の拡張場として第2座標系のなかに埋め込まれ、第2座標系は陽子の収縮場として第3座標系のなかに埋め込まれているのであるから、我々巨視的世界の観察者から観れば、第1座標系においてみるみると無限収縮する電子の姿や、第2座標系においてみるみると無限拡張する陽子の姿は、もはやいかなる方法を用いようとも、永久に観測されるべきものではなくなっているのである。

  

✧電子の拡張場と陽子の収縮場について

 三次元上の放射状に出ていく正電荷、放射状に入る負電荷といったそれら電荷についての従来の約束事は、本論においてはすべて真逆なかたちに書きかえられなくてはならない。ならば、電子と陽子の相互作用(電磁相互作用)のあり方についても、これはその根本から書き直されなくてはならず、そこには従来のものとは異なる新たな原子の描像が浮かび上がってくるはずである。

 たとえば、水素原子内の電子であるが、これは右図のように陽子がもっている収縮場の働きにより、速度vで遠ざかろうとする運動する電子に常なる向心力が与えられているからこそ、その円軌道運動が実現しているものと考えられる。

 一方、この場合の電子が持つ拡張場であるが、これはその速度vが大きいほど拡張場はより速く回転し、その半径は速度vが大きいほどより小さくなるのであるから、この拡張場の作用がおよぶ範囲は、その半径内に限られているものと考えねばならない。

 ということは、この回転する拡張場は、その中心点から外に向かってみるみると拡がりながら回転しているのであるから、そこには外に拡がっていく力と回転の力が併存していることになり、いわば電場と磁場が重ね合わさってその半径内に閉じ込められている状態になっていることになる。


 これらをあえて量子論的な解釈で言い換えるならば、そこには無数の光子がその半径内に閉じ込められているのと同様な状態になっているのであって、この場合に電子と陽子は、仮想光子としてのいかなるゲージ粒子を交換しているわけではないことになる。

 また、ボーアの原子模型によると、電子の運動方程式は

       mv/r=k℮/r   ※{k=クーロン定数}

と表され、左辺が円運動を行う電子の遠心力を表すのに対して、右辺は+℮の電気量を持つ陽子が、これとまったく同じ電気量-℮を持つ電子に及ぼすときのクーロン力を表している。

 しかし本論においては、円運動を行う電子にその向心力を与えているのが陽子の収縮場であり、その陽子は二つの対となった電子によって構成されているのであるから、陽子はそれ一つでも、すでに[k℮/r]なるクーロン力を持っているのではないのかと推測される。

 すると、引力としての[k℮/r]なるその力は、それぞれに℮なる電荷を持った電子と陽子の相互作用によって生じたものではなく、単独の陽子がもともと持っている電場(収縮場)の強さを表すものと考えられ、現在知られている陽子の電荷質量比(℮/m)とは矛盾するものの、この場合の陽子が固有に持つ電荷量は、電子と同一の電荷素量℮(1,602 176 634×1019)ではなく、℮ではないのかと推論されるのである。

 

✧重力の有無について

 さて第1章で述べたように、よりミクロからの視点とよりマクロからの視点は180度異なる方向性をもつのであるから、この観測一般における二つの視点は互いに不確定性の関係にあるといえる。

 たとえば、よりミクロからの視点によってその森を複数の木々として観測するには、観測者は森の中に分け入り、その対象により間近な位置におらねばならず、この場合には一つの森全体を観測することは不可能であるが、個々の木々の観察はより鮮明となる。

 他方、よりマクロからの視点によってその複数の木々を一つの森として観測するには、観測者はヘリコプターに乗って、上空からより広い地域を見渡せる広い視野が必要であり、この場合には個々の木々を観測することは不可能であるが、一つの森がどこに、どのように存在するのかがより明確となる。すなわち、一つの森を観測するには、よりマクロからの視点によるより広い視野が必要であり、そのためには、観測者はヘリコプターなどに乗ってより高所に位置することがのぞまれる。

 一方、複数の木々としての姿をより確かなものとして観測するには、観測者はその対象により間近な場所に位置することがのぞまれ、上空のヘリコプターの観測者は、なるべくその高度を下げて森の中の個々の木々に近づかねばならず、この場合のヘリコプターの観測者は、より高い上空から低い位置へと降りてくるのに従って、その観測の視点はよりマクロからの視点からよりミクロからの視点へと、徐々に移行していることになる。

 ならばそこで、先述第9章「重力の本質」で述べた、上空の彼方から落下する宇宙船であるが、これは上記のヘリコプターとまったく同様な状況にあることになり、当初、遠くのより小さな地球を観測しているときにはよりマクロからの視点であったものが、やがて地球が(大地が)みるみると目の前にせまってくるのにしたがって、その視点はよりミクロからの視点へと移行していることになる。しかし、地上で暮らし活動している我々人間からみると、諸々の物質物体によって構成される地球は、不変不動のより大きな座標系なのであって、我々人間は、よりミクロからの視点によってこの不動の地球を(大地を)観測していることになる。

そうすると、この場合の宇宙船の観測者は、よりマクロからの視点においてみるみると膨張する地球を観測し、地球という一天体が周囲の慣性空間をみるみると呑み込むかのように拡張するときに生じている、いわば物体の拡張力とでも言うべきその力が、地上の人間や、地表上に存在するすべての物体を常なる加速度をもって上空へと押し上げているのである。そして、その物体の拡張力を記述する座標系が、すなわち第9章で述べた第一座標系であるといえる。

 一方、よりミクロからの視点による地上の観測者によれば、自らの一定不変な地球には、地球がみるみると膨張するときに生じている物体の拡張力などというものは一切観測されるべきもなく、逆に地球を取り囲む三次元空間が、地球の中心点を目指してみるみると収縮するときに発生している、いわば空間の収縮力とでもいった力だけが観測される。そして、その空間の収縮力を記述する座標系が、すなわち第二座標系であるということになる。

この場合に、第一座標系における宇宙船の観測者にとっては、重力などといったいかなる場の力はどこにも見いだすことはできない。しかし、第二座標系における地上の観測者によれば、重力とは加速度的に収縮する空間が持っている現実の力であり、空間そのものが有しているその力こそが、実際に月の慣性運動を円軌道運動に変化させ、地表上のすべての物体を大地に固定させているのだと解釈される。

 ならばそこで、その現実に存在するはずの重力であるが、これが果たして実際に存在して機能している力であるとするならば、たとえばその力を媒介するとされる重力子は、なぜいまだに発見されないのであろうか。

 あるいは、それが実際に存在しているとしても、他の粒子との相互作用が弱すぎるために検出ができないだけなのか、ないしは重力という力そのものが元から実在してはいないものなのか、等々様々な推論がなされるのであるが、本論においては、その存在の有無について次のように答えることができる。 

 第一座標系においてみるみると拡張し膨張する地球は、続く第二座標系においては一定不変な大きさを持つ一天体として現れていることになり、この場合にかつての第一座標系はその地球の中心点を目指して、みるみると吸い込まれるかのように展開する収縮場に変貌していることになる。

 したがって、第二座標系において収縮場をもつ一定不変な大きさの地球とは、第一座標系においてみるみると拡張し膨張するかつての地球のことに他ならず、第二座標系における地球の収縮場とは、かつての第一座標系そのもののことに他ならない。

 この場合に、地球の拡張(膨張)を記述する第一座標系は、第二座標系における地球の収縮場へとその姿を変えて現れているのであるから、大地にたたずむわれわれ地上の人間にとっては、第一座標系は表には現れずに常に第二座標系の中に埋め込まれていることになる。

 そして、月は地球の周りを約27,3日で、地球は太陽系を1年で、また太陽は天の川銀河系をおよそ2億2600万年で1周するといった、段階的な各天体の周回運動も、すべてはその各段階におけるそれぞれの収縮場の働きによって実現しているものと考えられる。しかし、だからといって、その重力場そのものを担っている具体的実体としての重力子が、果たしてどこにどのようにして存在しているのかといえば、もはやいかなる観測者であろうとも、それを見い出すことは、どのような測定手段を駆使しようとも、永久に観測されるべきものではなくなっているのである。