先述第6章によれば、光源と観測者の二者に相対的な運動がある場合、すなわち観測者からみた光源が静止していない場合には、その観測される光にはドップラー現象が現れる。したがって、観測者が光源に向かって運動を行った場合、ないしは光源が観測者に向かって運動を行った場合も、いずれにせよその光の波長はドップラー効果によって短くなる。
また、光源ないしは観測者が相手に向かって加速度運動している場合は、その光の波長は、いわばみるみると加速度的に短くなる。この場合、波長がみるみると短くなる(一回の振動で進む距離が短くなる)一方で振動数はみるみると増大するのであるから、光源がみるみると加速しながら近づいてくるにもかかわらず、そこから発せられる光の速度はやはり不変の光速度Cなのである。ならばそこで、電子内において光子状態の電磁波が円軌道を伝播しているという場合には、その波長ははたしてどのようになっているのであろうか。
これは、光子状態の電磁波が円軌道を伝播しているということは、粒子的独立性をもつ個々の光子が等速円運動を行っている、と言い換えることができる。そうすると、いかなる等速円運動はいずれにしても加速度運動なのであるから、光子そのものが等速円運動という加速度運動を行っているというのであれば、光子の波長は、その加速度運動が続く限りどこまでも無限に短くなっていくものと考えてもよいはずである。
つまり、いかなる物体(質点)の等速円運動においては、物体はその接線方向へ直進運動を行うとともに、絶えず円軌道の中心点に向かって加速されている。同様に、光子の場合についても、光速度Cで直進しようとする光子が、円軌道の中心に向かって瞬間瞬間に加速されているとするならば、その波長(1回の振動が起きた空間の進行方向の長さ)も瞬間瞬間により短くなっていくものと考えられ、さらに、電子内のそれら円軌道を伝播する一つ一つの光子の波長が瞬間瞬間に短くなっているのであれば、円軌道そのものの大きさも瞬間瞬間に小さくなっていることになり、ひいては、その電子はどこまでも無限にみるみると収縮し続けていることになる。
そして、その円軌道は無限に収縮し続けるにもかかわらず、光子の速度は不変に光速度Cなのであるから、収縮した円軌道を一周するときに要する時間はより短縮され、光子が円軌道を一周する際に行っていた12回の振動の、その一回の振動に要する時間も短縮される。ということは、その無限に収縮する円軌道を伝播している光子が起こす単位時間あたりの振動数νは無限にみるみると増大していることになり、それら複数光子の全体である一電子は、絶えず無限に小さく収縮し続けるとともに、その固有のエネルギーもまた無限に増大し続けているということになる。
🔷《円運動を行う個々の光子は、右図x軸y軸が構成する2次元面の円軌道に沿って右回りに変位すると同時に、その円軌道の収縮にともなって中心点に向かっても変位していることになるが、z軸方向の変位については一切ない。したがって、この電子の厚み、すなわち電子の横幅(z軸上の長さa)に関しては、一切なんら変化するものではないはずである。
そうすると、この電子は個々の光子それぞれの波長の収縮にともなって、その円軌道の直径(x軸上の直径b)もみるみると収縮するが、一方の横幅に関してはこれが収縮するなどのいかなる変化はないのであるから、その究極の姿は、丁度「超弦理論」において述べられる「10次元のうちの6次元がコンパクトに巻き上げられた一次元の弦」のように、きわめて短い一本の線になっていることになる。》
話は変わるが、AからみたBが左方向へ速度vを有するのであれば、逆にBからみたAは右方向へ同じく速度vを有するというのは、対応するABの二者が相互に座標変換を行ったときの観測結果である。この場合、両者の測定する速度はまったく同一であるが、ベクトル方向は真逆であり180度異なる。
この両者の観測における運動方向の違いは、Aを固定した基準とみるか、逆にBを固定した基準とみるかの違いによって相対的に現れるのであり、Aを速度ゼロの静止系としたときのBの右方向の運動そのものが、相対的にBを速度ゼロの静止系としたときのAの左方向の運動そのものを説明しているのである。したがって、AB両者の観測における運動方向の真逆な違いは、むしろこの二者の運動の相対性を説明するものであって、ひいてはこのことがその運動の絶対性を否定しているともいい得る。
すなわち、Bが左ならAは右であるという真逆なベクトルの違いこそが、この二者の運動の相対性を説明しているのであり、逆に言えば二者の運動が相対的であるからこそ、相互の座標変換における真逆な運動方向の違いが現れるともいい得る。ならばそこで、対応する二者の系において、それぞれの観測における真逆なベクトル方向の違いがその運動の相対性を説明するのであれば、次に空間の相対性についてはどのように説明されるのか。
たとえば序論でも述べたように、ガリバーからみたリリパット人は極端に縮小しているものとして観測するが、一方のリリパット人からみれば逆にガリバーの方こそが巨大な人間として観測される。この場合、両者の観測は相対的であって、リリパット人を固定された基準とする場合にはガリバーが拡張しているのであり、逆にガリバーを固定された基準とする場合にはリリパット人のほうこそが収縮しているのである。したがって、リリパット人の縮小とガリバーの拡大という観測結果の違いは、二者の大きさについての相対性を説明するものであって、逆に言えば、互いの大きさについての観測が相対的であるからこそ、リリパット人の縮小とガリバーの拡大という真逆な観測結果の違いが生ずるのだといえる。
同様に電子の無限の収縮についても、相対的にはそれとはまったく逆の観測が想定されることになる。
すなわち、ある微視的な空間において、その円軌道(左上図点線)がみるみると収縮するという場合に、これを相対的に考えるならば、その円軌道は一定に固定されているが、逆に空間のほうこそがみるみると拡張している、という真逆な観測結果が考えられるのである。
たとえば、その横幅aが直径bの1/4倍であるような一個のトーラス状の電子があるものとして、これがある時刻t1時からt2時までの時間内にその直径bが1/2に収縮したとする。
ところが、この場合に電子の直径bが1/2倍に収縮したのか、あるいは空間の直径cが2倍に拡張したのかは、あくまでも相対的な問題のはずである。したがって、はたしてそのどちらが変化したのかは絶対的には決定することはできない。
そこで、電子がみるみると収縮するという場合に、その収縮過程を記述しようとするときの基準となる座標系を第1座標系とすると、この第1座標系(1x.1y.1z.)においては、横幅a直径cの円盤状の空間(点線の円)は不変に固定されているが、複数光子が描きだす円軌道は、その円盤状空間内をどこまでも無限にみるみると収縮する。
逆に電子の大きさは常に不変であり、円盤状の空間のほうこそが拡張しているとする場合に、その一定な電子に固定された座標系を第2座標系とすると、この第2座標系(2x.2y.2z.)における厚さa(1z軸上における電子の横幅と同一)の円盤状空間は、無限にみるみると拡がり拡張していることになる。
そうすると、この場合の加速度的にみるみると拡張する厚さaの円盤状空間は、もはや通常の固定されてあるべき単なる座標空間といえるものではなく、これは加速度的に変動し拡張する場、すなわち拡張場であるといえる。そして、この第2座標系において平面的に拡がっていく拡張場には、いわば拡張力とでもいった場の力が現われていることになり、その力はどこまでも果てしなく、無限に拡がり続けていることになる。しかし一方で、この第2座標系における不変に固定された円軌道を周回するときの個々の光子のエネルギー〔hν〕は、一定の有限値となる。
したがって、個々の光子のエネルギーが一定であるということは、それら全体の一電子のエネルギーも一定であるということに他ならず、すなわち、一定不変な広がりを有する一つの電子は、その中心点から常に拡張場を発しているものとするならば、その固有のエネルギー(静止エネルギー)もまた一定の有限値を現わすのである。
そうするとこの場合の拡張場とは、結果的に電子のエネルギーを有限値に保全し、常に一定な値に維持するように働いている場であるということになり、いわばプラス無限大の電子のエネルギーを一定の有限値に置き換えるべく、マイナス無限大の働きを為すのが、この円盤状に拡がっていく拡張場であるといい得る。
そして、電子のエネルギーを一定の値に固定させているこの円盤状に拡がる拡張場こそ、電子がその周囲に作り出している電場の元始でありその起源であるものと推定され、この場合に、第1座標系において無限に収縮していく電子(無限に小さな点としての電子)と、第2座標系において無限に拡がっていく拡張場(電場)が、相互にかつ同時に作用しあってその自己エネルギーが無限大になる、などということは決して起こり得るはずがないのである。