先述第7章で述べたように、光源は貨物車の後端Qに固定され、観測者Bは先端Pに固定されているのであるから、Bが観測するフラッシュ光にはいかなるドップラー効果は現れず、その波長は不変に1mであり振動数は3億サイクルである。一方、速度vで近づいてくる光源からのフラッシュ光を観測する大地のAは、その波長を75cm、振動数を4億サイクルと観測し、そこにはドップラー効果による振動数と波長の変化が現れる。
この場合、大地のAは大地のqpの距離を光速度Cで伝播した75cmのフラッシュ光を観測するが、貨物車のQPを伝播したであろう1mのフラッシュ光については、その速度をC+vであるものと推測する。したがって、Aの推測によれば1mのフラッシュ光は大地のqp´の距離をC+vの速度で伝播したのであるから、75cmのフラッシュ光がCなる速度でp点に至ったときの時刻と、1mのフラッシュ光がC+vなる速度でp´点に至ったときの時刻は同一であると推定することができる。
また、Bのドップラー効果の現れていない貨物車座標系においても、Aのドップラー効果が現れている大地座標系においても、それら二方向に照射されたフラッシュ光の同時性は、そのことごとくが普遍に保たれている。
ところがここで、Bの貨物車座標系をCなる速度で伝播した、ドップラー効果とは無縁なはずの波長1mの光について、これを大地のAが観測したときにも、その速度は一定不変の光速度Cであるとした場合には、その二方向へ伝播したフラッシュ光が貨物車の先端Pと後端Qのセンサーに至ったときの時刻は、後端Qに到達した時刻よりも先端Pに到達した時刻のほうが遅れていることになり、貨物車のBにとっては同時であるものが、大地のAの観測では同時ではないということになる。
そうすると、その二方向の光について、それが貨物車の両端に到達したのが同時であるのか同時ではないのか、あるいはそのどちらが先でどちらが後に両端に到達したのかは、それを観測する者の系の違いによって様々に異なることになる。
しかしすでに述べたように、Bの貨物車座標系を伝播した波長1mの二つの光については、これを大地のAが観測すること自体がもとよりあり得ない。加えて、その実際には観測されないはずの光の速度を、あくまでも一定不変の光速度Cであるとした場合には、結果的には次に述べるような因果律の崩壊が引き起こるのである。
ディラックの相対論的量子力学によれば、電子は広がりを持たない一個の点粒子として扱われる。ところが、大きさのない電子の電荷と質量は無限大となり、相対論におけるエネルギーと質量の等価性を考慮すると、そのエネルギーも無限に大きいことになる。この電子の自己エネルギーが無限大になるというのは、古典論としてのローレンツの電子論における点電荷の場合も同様であるが、いずれの場合も電子に有限な大きさを与えて考えれば問題は解消する。
一方、特殊相対性理論によれば、いかなる信号の伝達速度は光速度Cを超えることができないのであるから、空間的に離れた二点で起きた同時的事象は、その一方で起こった出来事が他方に起こった出来事に影響するというような因果関係は一切あってはならず、すなわちこの場合の離れた二点で同時に起きた事象は、どこまでも切り離された、それぞれ独立したものでなくてはならない。
そうすると、一個の電子になんらかの有限な広がりを与えるというのも、その広がりとは、結局は二点間の隔たりの大きさのことであるから、そこには単に独立した二つの時空点があるだけのことということになり、この切り離された二点を、なんらかの数学的方法を用いるなどして少しでも関連づけようとすると、結局それは原因と結果がその時系列において逆転してしまうといった、因果律の崩壊につながってしまうのである。したがって、上記の相対論的制約においては、たとえ微視系の電子であっても、これに固有の大きさを与えることは許されず、それはどこまでも広がりのない点でなくてはならない。
しかしこの制約は、本論においてはもとより無効である。なぜなら、ある系内の離れた二点で起こった同時的事象は、これを別の系で推測したとしても普遍に同時なのであって、この場合に相対論における「同時刻の相対性」は成立しないからである。
たとえば特殊相対論によれば、Bの貨物車の系において後端のQ点で起きた事件と、先端のP点で起きた事件が同時であった場合、これを大地のAが観測したときには、Q点で起きた事件がP点で起きた事件のほうよりも先に起きていることになる。そこでさらに、貨物車と同じ右方向へ、貨物車の2倍の速度で大地を運動する第三の観測者A´がいたとする。
※{貨物車を基準に考えると、この場合の貨物車座標系をAは左方向へ速度vで運動し、A´は右方向へ同一 の速度vで運動していることになる。}
この場合観測者A´によれば、貨物車のQ点で起きた事件がP点で起きた事件のほうよりも後に起きていることになり、大地のAの観測による先に起きたQ点事件と後に起きたP点事件が、第三の観測者A´によれば逆転しているのである。
しかし、このような離れたQPの2点で起きた事件の時系列が、それを観測する者の系の違いで異なるなどということは、現実にはあり得るはずがなく、Bの系内で起こった二つの事象が同時であるならば、系の異なるA・A´二者の観測(推測)においてもその事象は不変に同時でなければならない。したがって、ある系内の離れた二点で起こった同時的事象をそれぞれ独立したものとして切り離す必要もなければ、ひいては固有の大きさ(広がり)を持つ電子の因果律が崩壊するなどということも、絶対にあり得ないのである。
そうすると、実際に観測される電子のエネルギーは当然有限値なのであるから、その有限のエネルギーを有する電子には、必ずや有限の広がりが存在するものと考えねばならない。ならばそこで、電子には確かに三次元上の広がりが有るものとすると、この場合に問題となるのは、その広がりそのものがはたしていかなるもので形成されているのかである。
つまり、逆にその電子の広がりを形成しているのはその一個の電子自らであるとするならば、これは現実の三次元世界に、いかなる物質的要素を持たずしていきなり出現している、いわばお化けや幽霊のような類と同一のものと考えざるを得ない。したがって、そこにはその広がりそのものを担っている、なんらかの具体的な構成要素が必ず存在するものでなくてはならない。
ちなみに、ガンマ線のような大きな振動数を持つ電磁波が原子核のすぐ近くを通ると、電子・陽電子が対となって発生するのが確認されている。この場合に、その生成過程をそのままごく単純に考えるならば、電子・陽電子は、いずれにしてもより大きなエネルギーを持つ電磁波によって生成されているということになる。
ところが今日の素粒子論では、レプトン族としての電子は当初から有って有るべき基本粒子であるとされ、これは分割不可能な点粒子であるとされる。したがって、それ以上細分化することが不可能な点としての電子は、いかなる場合も、他のより基本的な素材粒子によって作り出される類のものではないということになる。
しかし、いずれにしても広がりのない点粒子としての電子のエネルギーは無限大になってしまうのであるから、電子には必ずや有限の広がりが存在するはずであり、有限の広がりを有する電子には、これを形成するなんらかの素材となる要素が必ず存在するものと考えねばならない。
言い換えれば、電子は点的な基本粒子であるがゆえに、真空から突然発生したりする類のものではなく、これは有限のエネルギーと固有の大きさを持つ実在のものとして、それ自身は本来細分化可能な粒子であると解釈され得るのである。
そこで次に、広がりを有するべき電子は、より大きなエネルギーを持つ電磁波によって生成されているものと仮定した場合に、その素材となる電磁波は具体的にどのようなものでなければならないのか。そして、そこから見いだされる新たな電子像は、はたしてどのようなものになるのかを考えてみる。
マックスウェルの電磁気学によれば、横波である電磁波は変動する電場と変動する磁場が交互に誘発しあいながら空間を進行していくところの波動である。電磁波はその波長を保ったまま無限に遠くまで伝達されるが、この波動は三次元空間を拡がるように伝播するのであるから、その密度、すなわち強度は発振源からの距離の二乗に反比例して減衰する。
一方、その位相がより完璧な形でそろっているレーザー光線の波動は、三次元に拡がる通常の電磁波とは異なり、一定の方向だけに集束(収束)されて伝播しているのであるから、その一つ一つの波の山※は、その長さ(波長)も密度も保ったままより遠くまで伝播される。
※{この場合本論においては、谷から谷までの長さを一波長であるものとする。}
広大な空間を拡がっていく電磁波とは異なり、高い指向性を持つレーザー光線は、その直線軌道に沿った細長い空間を伝播していることになるが、いずれにしてもこの一筋の光線は、その細長い空間に集束された電磁波であることに変わりはないはずである。そうすると集束されたその波動は、その細長い空間を、変動する電場は変動する磁場を発生させ、変動する磁場はまた変動する電場を発生させるといったように、その一つの波動そのものが交互に変貌しながら順次進行していることになり、このことは横一線に連なる一つ一つの波動そのものが、それぞれ単独でも伝播することを示している。
つまり、いわば一つの波の山そのものが、電場・磁場・電場・磁場とその姿を交互に変えながら変位していくのであるから、その一連の波動の一つ一つの波はそれぞれ独立して伝播していることになり、仮にその一つが切り離されてあったとしても、これはその直線軌道をより遠いところまで単独で伝播していくことになる。したがって、その一つ一つの波動は、それぞれ個々に区別され得るという意味での粒子的独立性を有していることになる。
※{以後は、集束された一つの波動を"光子"と称するものとする。なおこの光子の粒子性は、単にそれ一つでも独立して伝播されるというだけの意味をもつものであって、量子論的な意味合いの光子とは本質的に異なるものである。またこの光子は、あくまでもその位相だけが伝播されるところの波動なのであるが、一方では粒子的独立性も有しているのであるから、これが伝播していくときの過程を一個の粒子の変位として扱うことも、場合に応じて許されるものとする。}
そうすると、一筋のレーザー光線における一つの光子が変位していくときの様子は、おおよそのイメージとして次のようなものとなる。
すなわち、ある時刻t1においてaの位置にあった光子が電場Eであったとすると、次のt2時にはその光子は磁場Hに変貌してbの位置に現れる。また、t2時には磁場Hであったその光子は、t3時においてcの位置に再び電場Eとして現れ・・・といったぐあいに、その光子は電場から磁場へ、磁場から電場への変貌を交互に繰り返しながら、その直線軌道上を順次進行(移動)していくのである。
先述のように、エネルギーの大きなガンマ線が原子核の近くを通り、原子核の電場と相互作用したりすると、そこには一対の電子・陽電子が発生する。また逆に、電子と陽電子が出会って対消滅を起こす際には、2本(まれに3本)のガンマ線が発生する。
対消滅の際に現れる2本のガンマ線は、それぞれ180度異なる方向(反対方向)に走り去っていくのであるから、これらはレーザー光線ほどではないにしてもそれなりの指向性を持っていることになり、いずれにしても発生直後のガンマ線は集束された状態になっている。ということは、対消滅直後に現れたガンマ線は、その集束性に応じた光子状態になっていることになる。
また、通常のガンマ線そのものは、基本的にはなんらの指向性や集束性を持つものではないはず(つまり等方的に拡がっていくはず)である。したがって、対生成を起こす前のガンマ線は(あくまでも基本的には)指向性を持っていないが、対消滅後のガンマ線は、明らかに一方向へ集束された波動としての指向性を持っている。ということは、ガンマ線そのものは、本来なんらの指向性を持つものではないはずであるにもかかわらず、対消滅に際して現れるガンマ線には明らかな指向性が認められるのであるから、その集束性(ないしは粒子性)は、電子・陽電子が対生成されたときに獲得されたものであると断定することができる。
そうすると、対消滅後に現れた2本のガンマ線は、電子と陽電子が相互作用して消滅すると、そこに新たに生まれ出でてこの三次元世界にいきなり出現したのではなく、すでに崩壊前からその一個の電子と一個の陽電子の中に、光子状態の電磁波として存在していたものと考えねばならない。
しかし、質量がゼロであるところのいかなる電磁波は、いずれにしても光速度Cで常に空間を伝播し、常に変位しているところのものでなくてはならない。ということは、一電子の中に潜在していたはずの光子状態の電磁波は、その電子の大きさに準ずる非常に小さな空間内を光速度Cで伝播していたことになり、一電子内におけるその光子状態にある電磁波の光速度Cによる伝播とは、電子の大きさに匹敵する半径の円軌道を、繰り返し反復される周回運動であるとしか考えることができない。つまり、光子状態の電磁波が光速度で変位しながら、かつ電子の大きさに準じた微小な空間内に閉じ込められているとするならば、その運動形態は、複数の光子による円運動以外には考えることができないのである。
したがって、有限な広がりを有するべき電子は、より大きなエネルギーをもつ電磁波によって生成されているものと仮定した場合、その素材となる電磁波は明らかに光子状態にあるといえるし、この光子状態の電磁波は、その姿を絶えず電場・磁場・電場・・・へと交互に変貌させながら、その極めて小さな空間を円運動していることになる。
そこで、たとえば振動数が非常に大きな電磁波が、より重たい原子核の強い電場※と相互作用するなどのなんらかの要因により、あるきわめて小さな領域に閉じ込められたとすると、その一連の電磁波の一つ一つの波動は相互に干渉しあって重なり合い、収束されて位相の揃った光子状態になり、そこには電場と磁場が一定波長で交互に区切られた円周の長さがその波長の整数倍であるような、一つの安定した波の輪が作り出されるものと考えることができる。
※{正電荷としての陽子の電場は、それを取り囲む空間に現れたより強力な収縮場であることが後に示される。}
すなわち、一定の広がりを有するはずの一個の電子は、いずれにしても光速度Cで円運動を行う複数の光子によって構成され、かつまたその光子は、その姿を絶えず電場・磁場・電場・・・へと交互に変貌させながら、ある極めて小さな空間内を伝播しているのであるから、その内部構造は必然的に右下図のような形態になるものと考えられるのである。
そうすると、右図の場合その円軌道は12の波の山で構成され、一個の光子がこの円軌道を1週するときの変貌回数(振動回数)も12回であるものと設定(仮定)されているのであるが、この円軌道は12個の光子が連続的につながり、一つの輪に結ばれることによって、一定の周期性を持った定常な状態になっているものと考えることができる。
※{右上図の一つの円軌道を構成する光子の数量、ないしは波の山の数(2π r /λ)が12個であるというのは、あくまでも作図上の過程で任意に決められた仮定である。しかし、たとえばそれが11個や5個3個などの奇数であるとき、その円軌道には必ず1ヶ所だけ、電場と電場ないしは磁場と磁場が隣接してしまうといった事態が起こることになり、この場合の光子の円運動は、周期性の損なわれた不均衡かつ不安定な状態にあるといえる。したがって、安定した定常な円軌道を作り出す光子の数は、やはり偶数でなければならないものと考えられ、あるいは最低2個の光子でも、それが互いにスクランブルするようなかたちで、定常な状態を作ることは、基本的には可能なのではないのかとも考えられる。}
安定した周期性を持ち、偏りのない均衡のとれた円軌道は、右図のように電場と磁場が常に交互に並ぶように配置されているものと考えられる。
たとえば、t1時にbの位置にあった光子が電場Eである場合、次のt2時にはその光子は磁場Hに変貌してcの位置に現れ、t1時にaの位置にあった別の光子はこのとき磁場Hとしてあり、t2時にはbの位置において電場Eへと変貌する。ということは、bならbという場所には入れ代わり立ち代わり電場としての光子が現れるのであるから、そのb空間には一つの光子が持つ振動数と同じ回数の光子の入れ替えがあることになる。
この場合に、b空間における1回の光子の入れ替えは、b空間における1回の振動と考えてもよいはずである。したがって、それら12の微小空間は、それぞれに同じピッチ(同一周期)の振動を持っていることになり、それらが一つの輪に結ばれることによって、そこには定常な安定した状態の、特殊な空間が生み出されているものと考えることができる。
また、この円軌道を光速度Cで伝播する個々の光子には、それに遠心力を与える質量が存在しないのであるから、それらの個々の円運動光子はその円軌道(特殊な空間)をいつまでも継続して周回し続けることになる。
すなわち、再度換言して述べると、通常のエネルギーの大きな電磁波がなんらかの要因でひとたび集束された光子状態となって円運動を行った場合、それら粒子的独立性をもつ個々の光子は、自らが作り出したそのドーナツ型の特殊な空間(円軌道)を無限に何回も周回し続けることになり、そこには安定した一つの波の輪、すなわち円形定在波(その場に留まって振幅運動する波の輪)が出現しているものと考えられる。
そうすると、広がりを有するべき電子は、より大きなエネルギーを持つ電磁波によって生成されているものと仮定した場合、その素材となる電磁波は収束された光子状態となって円運動を行っていることになり、その定常状態にある一つの波の輪こそ、有限な大きさと一定のエネルギーを持つ電子に他ならないものと考えられるのである。
※{前章で述べたように、電子は決して広がりのない点粒子ではないのであるから、当然三次元の大きさを持つものでなくてはならない。しかし、実際の立体的な電子が具体的にいかなる形状であるのかなどについては、いまなおまったく不確かであると言わねばならず、その内部構造についてもすべて推測の域を出るものではない。
そこで本論においては、上記に示された電子の内部構造をもとに、右図のような円環状(トーラス状)のドーナツ型モデルを用いるものとし、その横幅(右図z軸上の長さa)に関しては、あくまでも任意に、光子の波長λと同一であるものと仮定して以後の論理を進めるものとする。}