第9章【二つの視点における重力の本質】

 あるAB二者の系があるものとして、AからみたBが収縮しているという観測結果を得たとき、BからみたAも同様に収縮してみえるとするならば、相対する二者が互いに相手を収縮していると主張するのであるから、これは明らかな二律背反である。したがって、AからみたBが収縮しているのであれば、BからみたAは必ずや拡張しているものでなくてはならない。すなわち、AからみたBの収縮は相対的にBからみたAの拡張なのであって、このAB二者の相対的関係においては、いかなる矛盾やパラドックスも現れない。  

 そこで話は飛躍するが、一般相対性理論の等価原理によると、宇宙空間において加速されたロケット内にいる人間が椅子に押さえ付けられるときの力と、大地にたたずむ人間が重力によって地上に押さえ付けられているときの力は、その違いをそれぞれに区別することができず、両者は本質的に同等であると考えられる。

 そうすると、重力そのものはロケットが加速度運動を行ったときに生ずる慣性力となんら異なるものではない、見かけの力であるということになり、大地にたたずむ人間は、地球の重力がその身体を大地に押さえ付けているのではなく、むしろ逆に、大地の方こそがその人間を上空に向かって押し上げているのだ、と考えてもよいはずである。

 あるいはこれらとは逆に、宇宙空間においていかなる加速のされていないロケット内は、より純粋な無重力状態であるといえる。これは、上空から自由落下してくるロケット(ないしは自由落下するエレベーター)内の状態とまったく同一であり、この二者の系におけるいかなる物理法則についてもなんら異なるものではないはずである。

 ということは、加速されずに宇宙空間にただ浮かんでいるだけのロケット内は、上空から落下してくるロケット内と区別することができないのであるから、その落下しつつあるロケットについても、重力などのいかなる力が働いているわけではない、と解釈してもよいはずである。

 つまり、地球から遠く離れた無重力の宇宙空間に、いかなる加速をせずただ浮かんでいるだけのロケットも、はるか上空の彼方から自由落下してくるロケットも、両者はなんら異なるところのないまったく同一の無重力状態なのであるから、その落下しつつあるロケットについても、これはいかなる力が作用しているわけではない非加速度系の物体であるということができるのであって、むしろ逆に、大地にたたずむ人間や地上に固定されている物体のほうこそが、大地から押し上げられるなどの力を実際に感じながら、絶えず上空に向かって加速度運動をしている系なのだ、ということができるのである。

 するとそれら地表上にたたずむ人間やすべての物体が、それぞれ上空に向かって加速されているのであるから、球体である地球は三次元のあらゆる方向に絶えず拡張していることになり、この場合のロケットは決して落下しているのではなく、逆に地球のほうこそが慣性系の静止しているロケットに向かって、みるみると膨張しながら接近しているのだといえる。

 すなわち、大地にたたずむ人間からみれば、上空から落下してくる物体には、万有引力といった目には見えないなんらかの不思議な力が働いているために、あたかも等加速度で落下してくるかのようにみえるのではあるが、逆に落下しつつある物体そのものからみれば、物体自らにはいかなる力が作用しているわけではない、まったく純粋な本来の慣性系(静止系)なのであって、むしろ大地のほうこそがみるみると大きくなり、大地にたたずむ人間のほうこそが等加速度でこちらに向かってせまってくるのだ、といい得るのである。

  

✧物体と空間(物質と場)の相対的関係

 そこで、たとえばいまごく軽量で小さな球状の宇宙船が宇宙空間に在るものとして、そこから遠くに地球をみるとき、地球はそれなりに小さくみえる。しかし宇宙船からみた地球は、あたかも風船をふくらますかのようにしだいに大きくなり、みるみると膨張しながらせまってくると、ついには巨大な大地がみえてきて衝突する。 

※{この場合の宇宙船は、その大きさと

  質量が巨大な地球に比してゼロに等

   しいものとする。}


 一方地上の観測者にとっては、地球は常に一定不変の大きさであって決して膨張などしてはいない。ということは、地球はまったく不変でありながら、対する宇宙船の観測者からみたこの地球がみるみると大きくなってみえるというのであるから、逆に大地の観測者からみれば、その宇宙船が固定されている三次元空間のほうこそが、地球の中心点に向かってみるみると収縮しているのだ、と主張するはずである。

 つまり、宇宙空間にただ静止しているだけの慣性系としての宇宙船の観測者からみれば、地球は宇宙船に固定された三次元の慣性空間を、みるみると呑み込むかのように膨張しながら近づいてくる。しかし、逆に地球の大きさは常に一定不変であるとする地上の観測者みれば、不変な地球を取り囲む三次元空間のほうこそが収縮し、宇宙船のほうこそがその距離をみるみると縮めながら落下してくるのだ、と主張するはずである。

※{この場合に、静止している宇宙船に向かって巨大な地球が落下してくる、などということはあり得ない。静止系としての宇宙船からみた地球は、やはりみるみると膨張して近づいてくるものと考えねばならない。

 そして、宇宙空間に浮かんでいるだけの宇宙船内は、あくまでも無重力なのであるから、宇宙船が固定されているところの座標系は、いかなる力も作用していないより純粋な本来の慣性座標系のはずであり、宇宙船の観測者からみた地球は、その固定された慣性座標系において、いわば勝手に膨張しながらみるみると宇宙船にせまってくる。     

 しかし一方の地上の観測者によれば、自らの地球は常に不変の大きさであってなんら変化してはいない。ということは、相対的には地球を取り囲む三次元空間の方こそが、地球の中心点に向かってみるみると吸い込まれるかのように収縮している、と主張するはずである。

 そうするとこの場合の重力とは、一般相対論におけるいわゆる時空の歪みというよりも、空間そのものの加速度的収縮に他ならないといえるし、みるみると収縮する空間に現れるその力は、地球の中心点からの距離の自乗に反比例して分布し、いかに微小なものではあってもはるか無限の彼方の物体にまで作用していることになる。

 一方宇宙船の観測者によれば、みるみると収縮する空間に現れる力などといった、そのような目には見えない不可解きわまる力は一切観測することはできず、逆に自らが固定されている慣性空間を呑み込むように膨張する地球の姿だけが観測される。すなわち、この観測者にとっては地球という天体がみるみると拡張するときの力は、地表上のすべての物体に直接作用している接触力であり、やがては自らの宇宙船に直に接触して衝撃を与えるであろう、物体が物体に直接作用するときの具体的な力であるといえる。 

 したがって、巨大な物体(物質)としての地球とそれを取り囲む空間()の二者は、前者が加速度的拡張過程を現すのに対して、後者は加速度的収縮過程を現すのであるから、この二者における相互の関係は、逆比例の関係であると同時に相対的であるということができる。

 

✧重力についての拡張と収縮

 無重力の宇宙空間に静止している宇宙船は、いかなる力も作用していない、本来のより純粋な慣性系である。

 そこで、たとえばこの宇宙船に固定された慣性座標系を第一座標系〔..〕とし、宇宙船はその第一座標系のある一点(左下図に示される座標点)に位置しているものとすると、地球は第一座標系上で静止している宇宙船に向かって、その三次元の慣性空間を(つまり第一座標系そのものを)みるみると呑み込むように膨張し、拡張しながらせまってくることになる。

 この場合に、ある時刻()における地球半径()と地球表面から宇宙船までの距離(Ł)の比を対3であるものとし、時から時までの時間内に地球の大きさが2倍に、また時には時のときのさらに2倍に拡張したとする。すると地球はŁなる距離の空間を、時間経過とともにみるみると呑み込むように膨張(拡張)して宇宙船に接近し、時にはその3分の1を、時にはその3rの距離Łすべてを呑み込んで、第一座標系に固定されている不動の宇宙船に接触()する。

{上図第二座標系のz軸はすべて省略する。なお地球中心に向うベクトルの長さは、その位置に働く力の強さではなく、みるみると収縮する空間の密度的な状態を表わすものとし、すなわちより長いベクトルほどその力はより弱く、より短いベクトルほどその力はより強いということになる。}

🔷一般相対性理論によると、自由落下する二つの物体 (ないしは落下するエレベーター内に浮かんでいる二つの小物体)は、地球周辺の時空の歪曲によって互いに接近する。しかしこれは、二つの物体と地球の三体が、第一座標系におけるそれぞれの場所(位置)で膨張しているだけのことであって、そこには重力などのいかなる場の力が働いているわけではない。それら三体は、第一座標系においてそれぞれに膨張しているのであるから、その三体間の距離は当然変化し、みるみると短縮する(みるみると近づく)ものと解釈される。

 ちなみに月は地球の周りを、地球は太陽系内を、また太陽系は天の川銀河系において周回運動を行っているのであるが、この段階的なそれぞれの系がある時点でその周回運動をすべて停止したとすると、それぞれの天体はそれぞれの位置でその完成空間をみるみると飲み込むように膨張し、ついにはその天の川銀河系全体が一つの巨大な塊となって、光速度をはるかに超える速さで更なる無限の膨張を続けるということになる。

 そしてこの膨張過程を、次に述べる第二座標系でそのまま真逆にとらえたものが、すなわち光をも飲み込んで逃がさない強烈な重力場(下記の収縮場)を持つブラックホールであるものと考えることができる。 

 

 一方、地球は決して膨張(三次元拡張)しているわけではなく、逆に地球を取り巻く三次元空間のほうこそが、地球の中心点に向かって吸い込まれるように収縮しているとする場合は、t時における3rの距離(Ł)は、t時には2rに、t時には0rに収縮し、宇宙船は静止している不動の地球に向けてみるみると落下し衝突する。

すなわち、この場合の不変な大きさの地球に固定された第二座標系〔2x.2y.2z. 〕において見いだされる加速度的に収縮する三次元空間とは、宇宙船に固定されている第一座標系そのもののことであるから、このようなみるみると収縮する座標系は、もはや本来の固定されてあるべき座標系といえるものではない。

 したがって、これは加速度的に収縮する場とでも言うべきものであって、この収縮場(すなわち重力場)において現れるいわゆる場の力(非接触力としての空間そのものがもつ力)は、第一座標系の観測者(無重力の宇宙空間で静止している宇宙船の観測者)からみると一切観測することはできず、この観測者にとってはそのような力はどこにも存在してはいない。つまり、この場合の第一座標系の観測者とは、いかなる加速度運動を行わないより純粋な慣性系の観測者のことであり、この、本来は非加速度系であるはずの宇宙船の観測者によれば、重力などといったいかなる場の力はどこにも見いだすことはできない。


 なぜなら、その力が現れている収縮場とは、すなわちかつての第一座標系そのもののことだからであり、第一座標系という慣性座標系の一点に固定されているはずの宇宙船の観測者は、自らが固定されている座標系が地球の中心点を目指してみるみると収縮し、その収縮にともなって落下している自らの姿を観測することは、その観測の視点のあり方として絶対に不可能だからである。

 そして、この第一座標系の観測者によれば、地球という一天体が周囲の慣性空間をみるみると呑み込むかのように拡張するときに生じている、いわば物体の拡張力とでも言うべきその力こそが、地上の人間や、地表上に存在するすべての物体を常なる加速度をもって上空へと押し上げているのである。  

 一方、第二座標系の観測者(大地にたたずむ被重力系の地上の観測者)によれば、自らの一定不変な地球には、地球がみるみると拡張するときに生じている物体の拡張力などというものは一切観測されるべきもなく、逆に地球を取り囲む三次元空間が地球の中心点を目指してみるみると収縮するときに発生している、いわば空間の収縮力とでもいった力だけが観測される。

 そうすると、この場合に地球という一天体が膨張するのか、あるいはそれを取り巻く空間が収縮するのかは、あくまでも相対的な問題のはずであるから、天体の拡張(膨張)と空間の収縮という二者の相対的関係にあっては、そのどちらか一方だけが絶対的に正しく他方はまちがっているというわけではない。

 したがって地上の観測者によれば、重力とは加速度的に収縮する空間が持っている力であり、空間そのものが有しているその力は、この観測者にとっては確かに存在し、もともと慣性系であるはずの自らの身体を大地に押え付けているのである。

 しかし、宇宙船の観測者によれば、地上の人間を大地に押え付けている重力などといった不可解な力はどこにも存在してはいないのであって、この場合の地上の人間は重力によって大地に押え付けられているのではなく、逆に、地球という大質量の天体がもつ拡張力によって上空へと押し上げられている、としか観測することができないのである。

 

✧曲がる光の経路

 地球の周囲を回っている月が、あるときその周転運動を止め、すなわち速度vで直進しようとするときの慣性を失ったとしよう。すると、ニュートン力学に従えば、地球の約1/81倍の質量を持つ月は

     mg=GMm/r2=F 

(m=月質量 g=地球重力加速度 G=引力定数 M=地球質量)

という万有引力()によって、ただちに等加速度()で地球に落ちてくることになる。


 しかしこの月の落下は、月が速度vの慣性力を失ったものと仮定したときの、あくまでも架空の設定によるものであり、実際にはこのようなことは起こらない。

 すなわち、地球の周回軌道を周転する月は、もともとその接線方向へ速度vで直進しようとするときの慣性を持っているのであるが、速度vの等速直線運動で地球から離れて行こうとする月を、絶えず地球の中心方向に引き戻そうとする収縮場の働きによってその一定の円軌道運動 (周転運動が実現し、この場合の第二座標系における月は、その円軌道運動が続く限り、地球から遠く離れていくことも、地球に落ちてくることもない。

 そこであらためて、月が行うその円軌道運動であるが、これは月が持っている速度vの慣性と、地球の収縮場による月が地球の中心点に向かって引き寄せられるときの向心力(mgの引力Fと同一)との複合(合成)によって実現しているのであるから、この場合の向心力は、月の周転運動には必要不可欠な力になっていることになる。


 つまりこれらを逆に言えば、月を地球に引き寄せているところの向心力という力が存在しなければ、月の円軌道運動は実現しないのであるから、第一座標系においてはどこにも存在していない重力や万有引力といった場の力は、第二座標系においては実際に月(物体)の運動を変化させる能力をもった、実効性をともなう力としてそこに確かに存在し、具体的に働いているということになる。

 すなわち、第一座標系の観測者にとっては、重力などといったいかなる場の力はどこにも見いだすことはできないとしても、一方の第二座標系の観測者によれば、重力とは加速度的に収縮する空間が持っている現実の力であり、空間そのものが有しているその力は、実際に月の慣性運動を円軌道運動に変化させていることになる。

 すると月は地球の周りを約27,3日で、地球は太陽系を1年で、また太陽は天の川銀河系をおよそ2億2600万年で周するといった、段階的な各天体の周回運動は、すべてその各段階におけるそれぞれの収縮場の働きによって実現していることになり、さらにその収縮場は、天体の軌道のみならず光の経路をも変化させ曲げさせる能力を持ち、この場合に、その曲率は地球なら地球という天体固有の重力加速度の大きさに比例するものと考えられ、第一座標系においては直進する光の経路も、第二座標系においては確実に曲がっているのである。

   ※{第一座標系における光は直進するが、第二座標系における光の経路は曲がっている。}

 そこで、この地球を取り囲む空間に展開する収縮場(重力場)については、あらためて最終章で述べるものとして、次に、微視的世界の立役者とも言うべき電子が、今日の素粒子論が主張するようにはたして本当に広がりのない点粒子であるのか否か。あるいはなんらかの有限な広がりがあるとするならば、その内部構造はどのようなものになっているのか。さらには負電荷としての電子がもつ電場とは本質的にいかなるものであるのか、等々について考えてみる。