物体の運動とは、ある観測者からみてそれが非静止系であって、すなわち速度を有する状態のことといえる。ならば、その速度とはいかにして測定されるのか。
速度の大きさは、L(距離)/T(時間)であるから、その測定に際しては基準となる座標系の二点間の距離を質点がどのくらいの時間で変位したのかを測定するか、あるいは逆に一定の時間内に質点がどのくらいの距離を運動したのかを調べればよい。
しかし、観測者が実際にある物体の速度の測定を行おうとする際には、その対象物体のほうが速度を有する運動系であると考えているのであるから、観測者は必然的に固定された座標系の立場であるところの、よりマクロからの視点になっていることになる。そして、観測者が物体の運動を観測しているときに行えるのは、二点間の距離を質点が変位しているときの時間測定であって、一定の時間内に質点が運動した距離を測定するという後者の方法は、その運動を観測した後に行う行為であると言わねばならない。
ということは、実際に行う速度の測定とは、観測者がよりマクロからの視点を用いて、その物体が時間経過とともに刻々とその位置を変化させているときの様子を観測することに他ならず、この場合の観測者は必然的に前者の時間測定の方法を用いているということになる。
一方、観測者が運動する電車内にいるときなどに、自らの速度を測定しようとする場合はどうなるのか。結論から述べると、その観測者が自らの速度を測定することは原理的に不可能である。
なぜなら、その観測者はよりミクロからの視点の運動系なのであるから、その運動しているはずの自らの姿を観測できるわけがないからである。しかし、観測者がそこで視点をよりマクロからの視点に切り替え、たとえば自らの電車の30mを、線路際の電柱などが東へ向かっていかなる時間で変位したのかを調べれば、あくまで間接的な方法として、結果的に自らの速度を知ることができる。
したがって、いずれにしてもいかなる運動の観測は、すべてよりマクロからの視点によってなされ、よりミクロからの視点ではなされないということができる。
ところで、先述のようにニュートン力学以来、いかなる運動物体はすべて質点でなければならない。ならばなぜ、いかなる理由によって、現実には必ずそれなりの広がりを有するはずの物体が質点でなくてはならないのであろうか。これは、まず第一には運動物体にそれなりの長さがある場合、その物体の位置が座標系の一点に明確に記述することができないといったことが挙げられる。
たとえば、電車の先端をP点、後端をQ点としたときに、それがある時刻に東京~大阪の系のどの場所に位置したのかと言えば、それはP点とQ点の隔たりが大きいほど、すなわちPQが長ければ長いほどその位置を一点に記述することができず、その時刻の電車の位置はその長さに応じて、いわばぼやけていることになる。そして、東京から大阪までの所要時間を測定しようとしても、大阪に到着したときの時刻、あるいは途中の名古屋を通過したときの時刻にも、そのPQの長さに応じた時間的な幅が生じていることになり、その時刻を瞬間的な一点に確定することはできない。
ちなみに名古屋のプラットホームにたたずむ観測者が、30mの電車の通過時刻を決定しようとしても、その速度が仮に秒速20mであれば、その電車のP点からQ点までの通過時刻には1,5秒間の幅があることになる。そうすると、たとえば「この電車の通過時刻は、午後12時から12時1,5秒の間である。」といったように、いわば時刻そのものが厚みを帯びて不明瞭になっているのである。
そこで、このような場合には、その物体の中心点だけの運動を扱うとか、あるいは競馬の写真判定のように馬の先端部分である鼻の一点だけを扱う、といった方法がとられるのであるが、いずれにしても運動物体の現実の長さを考慮する場合には、それが点ではない以上、その位置と時刻の測定値にはその長さに応じた厚みが生じてしまい、結果としてその厚みは測定値の不確定度(ぼやけ度ないしは後述のぼやけ率)に比例してくるのである。
そして、この場合の長さを有する物体の速度を調べようとすること、あるいは速度を有する物体の長さを測定しようとすることは、実を言えば原理的に不可能なことなのであって、そこには視点のすり替えが行われているのである。
たとえば、前述のように観測者(A)が、自らはプラットホームに固定されているところの座標系の立場にあり、そのよりマクロからの視点によって電車の各部分や各ポイントを観測しているときには、それら個々の質点は、明らかにプラットホームを西へ向かって運動しているのだといえる。
一方、連続した長さを有するところの電車全体が面前を通過して行くのを観測している場合には、逆に電車は静止していてよりミクロからの視点の観測者自らのほうが、電車の先端Pから後端Qへと、東へ向かって運動しているのである。
そこで、観測者がよりミクロからの視点において長さを有する電車全体を観測する場合に、観測者自らが電車の先端Pから後端Qに至るまでの1,5秒という時間は、電車のPQの距離を観測者が東へ向かって運動したときの確定される所要時間なのであるが、それにもかかわらず、依然として電車全体があくまでも西へと向かう運動系であると主張する場合には、その1,5秒は運動する電車がある座標点を通過したときの時刻のぼやけになってしまう。
ということは、いずれにしても長さを有するところの電車そのものの速度をより正確に測定することは、根本的に不可能であると言わねばならず、もとより、長さを有する電車を運動する物体として観測するということ自体が、視点のすり替えに他ならない。この場合、連続した長さを有する電車全体の観測は、対する観測者がよりミクロからの視点である場合になされるのであるが、この視点においては、観測者自らは速度を有する運動系であって電車は固定された座標系のはずである。
ところがそれにもかかわらず、長さを有する電車がそれでも運動しているものとしてその運動を記述しようとするならば、そこに現れる測定値はぼやけそのものと化してしまうのである。そして、連続した長さを有する電車は、あくまで静止系でなくてはならないのであるから、この場合に長さを有する電車の速度をより正確に測定したというのであれば、それはもはや観測者が無意識に行った視点のすり替えに他ならないといえる。
したがって、長さを有する電車の速度をより正確に測定しようとすること、あるいは、逆に速度を有する電車(運動する電車)の長さをより正確に測定しようとすることも、もとから根本的に不可能であるということができる。
「地球はよりマクロからの視点において太陽からみれば質点であり、よりミクロからの視点のジェット機からみれば座標系である」というのは、段階的に太陽・地球・ジェット機という三者の系に分別することができる。そして、対象物体としての地球は、より広大な太陽系とより小さなジェット機の中核に位置する。
一方、観測者と対象物体の二者の相対運動の場合は、その対応関係は常にその二者によって語られなくてはならず、たとえば宇宙空間でまったく同一の大きさの二つの宇宙船がすれちがうとか、あるいは30mの電車に対して同じ30mのプラットホームに観測者が固定されている、などというようなまったく対等な相対運動の場合であっても、そのどちらが運動系であるか否かを考えるときには、互いにそのどちらかが座標系であり質点でなければならない。
つまり、三者の段階的関係の場合には、たとえば広大な太陽系に比較してほとんど点のような地球は常により明確な運動系の質点であるし、よりより小さなジェット機に対する地球は常により広大な座標系である。そして、この三段階の中核に位置する地球に対する太陽系とジェット機の二者の対応関係は不変に固定されている。
しかし、二者の相対運動の場合は、相互に座標系と質点の対応的な視点の切り替えがなされるのであって、ちなみに太陽という一個の恒星と地球の二者だけの相対運動を考える場合には、かつての天動説のように太陽の方が運動系の質点であってもかまわない。
そこで、たとえばBがAに対して右方向にv1の速度を有し、Cは左方向へv2の速度を有するならば、CからみたBの速度は右方向へv1+v2である。
この簡単な速度合成は、Aの座標系におけるBの運動をCの座標系に変換したときのごく当然な変換法則に従ったものである。そして、この座標変換にはそれぞれ独立した三者の系が関わっているわけで、三者の運動はそれぞれ相対的である。ということは、これまで述べてきた二者の相対運動における視点の切り替えとは、ABの二者相互の座標変換のことに他ならないといえる。
そうすると、上図⦅二者の相対運動⦆のような二者相互の座標変換においては、プラットホームの観測者Aが電車の速度を測定しようとすることと、電車の長さを測定することは、同時にはなし得ないはずである。
なぜなら、観測者がその系の中の一つの質点が変位するときの所要時間を測定しているとき、その電車全体の連続した長さを同時に測定することは不可能であるし、仮になんらかの方法で測定できたとしても、その値は最大にぼやけた不確定な値になるはずである。そして逆に、長さを正確に測定したときには、その質点としての運動の所要時間の測定値は最大にぼやけているはずである。
そこで実際に、運動している物体の長さを測定するには、具体的にどうすればよいのかを考えてみる。
これは、一般的にはその物体が静止しているのであれば、基本単位となる物差しをあててその両端の隔たりを測ればよいのであるが、物体が運動している場合には、物差しをあてたときに、その先端Pと後端Qの位置を同時に読み取ればよいということになっている。
つまり、P点とQ点の二つのポイントの物差し上での位置を調べる際に、先端Pの位置を先に決めれば、次に後端Qの位置を決める間にQの位置は先に進んでしまうのであるから、これは本来の長さよりも短くなる。また後端Qから先に決める場合には、次に先端Pの位置を決める間にPの位置は先に進んでしまうのであるから、これは本来の長さよりも長くなってしまう。
したがって、とにかく両端の位置を同時に読み取りさえすれば、その正確な長さは決定されるはずである。そして、運動する物体の長さを確定するには、先端と後端の位置を決定するときの時刻に時間間隔があってはならず、その時間間隔がより短いほど同時性は高くなり、その長さの確定度も高くなる。
ところがそこで、先端と後端の二つのポイントの位置をまったく同時に確定したということは、二つのポイントの位置を決定したときの時間間隔もまったくゼロということであって、ひいてはこの観測に要した時間もゼロであるということであるから、この瞬間的な観測においては、物体のいかなるポイントの変位を観測することはできないはずである。
すなわち、この場合の「同時に」というのは、先端Pの位置が記された時刻と後端Qの位置が記された時刻が同一であるということであり、この離れた二点の位置の同時の観測においてはいかなる時間の幅がないということである。ということは、この観測においては、いかなるポイントの変位は観測されないのであるから、これは時間的な変化そのものがない観測になっているということであって、いわば時間の流れがその「同時に」という時刻で止まっているのである。
ちなみに、離れた二点の位置を同時に決めて長さを測定するというのは、観測者の座標系に固定された物差しで、運動する物体の先端後端の二点の位置を同時にかつ瞬時に読み取ろうとすることであるから、これは座標系に固定された写真機で、一瞬のうちにその物体の静止した姿を写し撮ろうとするのとまったく同様なのであって、そこには物体の運動している姿、ないしは速度を有するところの姿、あるいは物体が変位しているときの姿の一切が見いだせなくなる。
この写真機の場合に、実際に運動している物体の姿を確実に捉えようとするには、シャッタースピードをより早くし、露出時間のより短くした写真機を用いればよい。しかし当然のことながら、瞬間的に撮影された一枚の写真の映像にはまったく静止した物体の姿しか写し出さない。そして、より瞬間的なシャッタースピードでぼやけのないより完全に静止した姿が撮れた場合には、その長さはより正確に測定することができるが、他方露出時間を長くすればその時間内の運動した様子がぼやけて映し出され、その長さは予測されない長さに拡張された映像となる。
(あるいはまた、シャッターが電車の先端Pから後端Qに向かって開くような場合には、その映像はより縮んで映し出される。)
一方、PQの位置の測定時刻が同一であり、すなわちまったく瞬間的に露出された場合は、いかなるぼやけのないより正確な電車の長さを観測することができる。しかし、この観測(撮影)に要した時間は(近似的に)ゼロなのであるから、この観測には物体の位置のいかなる変動過程そのものがなくなっているのであり、そこには時間が静止している状態が作り出されているのである。したがって、相対的に運動する物体の長さを正確に測定した場合には、その運動の様子そのものが一切観測されなくなるといえる。
また、P点であれQ点であれ、いかなる一つのポイントの位置をより正確に決定しようとするならば、観測に要する時間はやはりより短いことが要求される。つまり、一つのポイントが、ある指定された時刻に座標系のどの場所に存在したのかをより正確に記述するには、その観測の時間(露出時間)がより瞬間的であればあるほど、そのポイントの位置はより明確である。しかし、その観測に要した時間が長いという場合は、その時間内にポイントは変位してしまうわけで、その進んだ距離の分だけその位置を座標系の一点に確定することはできなくなる。
もとより、位置を決定する際の観測の時間が長いということは、指定された時刻というオブザーバブルに有限な時間の幅が生じているということであって、いわば位置そのものがその時間内に動いてしまっているということに他ならず、逆にその時刻にまったく瞬間的に位置を確定した場合には、そのポイントは観測者の座標系上に静止した状態として観測されることになり、そこにはいかなるポイントが変位しているときの様子を観測することは、一切できないのである。
これらを端的に換言すると、ある瞬間(時刻)におけるその位置の観測と、動きつつあるものの観測は、これを同時になすことができず、物体の動く様子を観測しながら、同時にその位置を瞬間的に観測することはあり得ない。ということは、結果的に位置の測定と速度の測定は、同時にかつより正確には為し得ないのであって、両者は不確定性の関係であるということができる。
そうすると、一つのポイントの位置を正確に決定するにも測定時間はより短くなければならないのであるから、ましてや同時にPQの二点の位置を決定したなどという場合には、そこにはいかなる時間的変位過程は見いだすことができず、時間経過と共にその位置を連続的に変化させるところの、いかなる運動そのものが観測されないということになる。
すなわち、いかなる運動の観測には当然それなりの時間が必要であり、そもそも物体が運動すること、ないいしはそれが非静止系であるということは、時間も非静止系であって有限であるということであろう。しかし、他方運動する物体の位置やその時刻を正確に測定するには、時間は必要ないどころか不正確さを生ずる邪魔な存在であって、これは限りなくゼロに近いものでなくてはならない。ところがそこで、より瞬間的に捉えられ観測された運動物体は、静止しているときの姿しか見いだすことができず、当初の『運動するところの物体の長さを測定する』という目的はどこまでも達成することはできないのである。
そして、同時に二点の位置を決めてその長さを測定するということは、その物体が運動しているときの姿を観測することを断念するということに他ならず、ひいてはより正確な長さの測定は、観測者と対象物体との相対的運動関係を消去するといえる。そうすると、いかなる運動物体はその長さを正確に測定した場合には、その運動が消去されるのであるから、逆にその速度を正確に測定しようとする場合にはその長さが消去されなくてはならない。ということは、その長さが消去された運動物体こそが正しくニュートン力学で述べられるところの質点であるといえる。
いかなる運動物体も質点として考えるというのは、今日では力学上の暗黙の了解である。しかし、この暗黙の了解という漠然とした解釈について、あえて理論的な説明を試みるならば、これは次のように述べることができる。
すなわち、いかなる運動物体はその速度を測定しようとする際には、その物体の長さは消去して考えねばならない。この場合に速度を測定するというのは、具体的には、物体が観測者に固定された座標系上のある一定距離を運動したときの所要時間を測定することに他ならず、その時間測定の際に物体の進行方向に長さがあるというのでは、これが各座標点を通過するときの時刻には有限な幅が生じ、結果的には速度と位置の測定に不確定性が生ずることになる。
※{本論における座標系は、すべて対象物体の立体的形状とその運動方向だけをより明確に表示しようとするためのものであって、以後に用いられるいかなる直交座標系も、本来の質点の運動を数学的に記述しようとするためのものではない、ということを述べておく。}
そこで、図1のような直線軌道運動においては、これがたとえ加速度運動であったとしても、この物体の進行方向(x軸方向)の長さが消去されれば、x軸上の各座標点における通過時刻は、時間的な広がり(幅)のない一点に決定することができ、その位置のぼやけも消去することができる。
次に、図2のように物体の運動がx軸方向だけの直線軌道ではなく、y軸方向についても変位があって、すなわち物体がxy二つの次元にわたる曲線軌道運動を行う場合には、y軸上の長さも消去され、また図3のように、物体がz軸方向も含めた三次元上の運動を行う場合にはz軸上の長さもさらに消去されることになり、ここに広がりの無い一個の点の姿が導出されることになる。
ということは、物体の様々な運動を、三次元の空間座標でより性格に記述しようとする場合には、その三方向の長さはそれぞれ消去されなくてはならず、つまりある時刻におけるxyzの各成分をより正確に表記するには、その物体本来の三次元の大きさは常に一点に集約されるものでなくてはならない。
そして、「速度の測定に際しては物体の長さは消去して考える」というのは、いわばその物体を、運動を行う力学的対象として質点化するということに他ならず、逆に言えば、いかなる運動物体はあらゆる方向の現実の長さを消去し、質点化することによって、より理想的なかたちの力学的記述がなされるものといえる。したがって質点とはすなわち、力学上で想定されるあらゆる進行方向の長さがすべて消去され、同時にその力学的対象としてのぼやけもすべて消去された物体のことであるといえよう。
ところで、30mの長さを有する電車も、東京大阪の系といった数百kmに及ぶより長大な距離からすれば、それはほとんど点にも等しいものである。したがって、この場合には30mの電車も、近似的に一つの質点と考えてよい。ということは、この場合の電車の30mという長さは消去されずそのままでありながら、それら全体を質点として捉えているのであるから、これはその対象物体の長さそのものを消去して質点化するのではなく、逆に座標系のほうをより大きな規模に拡張することによって、相対的かつ間接的に物体の質点化がなされるものといえる。
そこで、先述のように30mの電車が、ある座標点を秒速20mで通過するとき、その座標点が電車の先端Pから後端Qに至るまでの時間は1,5秒である。したがって、電車がその座標点を通過したときの時刻には1,5秒間の幅が生じているわけで、たとえばこの電車が60mの距離を運動するとき、起点を出発したときの時刻と終点に至ったときの時刻には計3秒の幅(時間的厚み)があることになる。
一方、質点が60mの距離を秒速20mで運動したときの確定される所要時間も3秒である。
時刻の幅計3秒に対して確定される所要時間も3秒ということは、その比は3対3であるから、30mの電車が60mの距離を運動したときの所要時間の測定におけるぼやけの大きさ、ないしはその不確定度は100%ということになる。
すなわち、質点が起点に位置したときの時刻が、たとえば午後0時ジャストであったとすると、次の時点(時刻)における観測では、この質点は午後0時3秒に終点で確実に観測される。しかし、30mの電車が60mの距離を運動したとき、その電車が起点に位置していたときの午後0時という時刻には1,5秒の時間的幅が存在し、また午後0時3秒という時刻にも1,5秒の時間的幅が存在する。
ということは、この場合に電車が起点に位置したときの時刻を測定した観測者にとっては、その午後0時という時刻には1,5秒の不確定な幅があるのであるから、その時刻そのものは午前11時59分59,25秒(午後0時の0,75秒前)から午後0時0,75秒の間であるとしか述べることができないし、また午後0時3秒という終点に位置したときの時刻も、午後0時2,25秒から午後0時3,75秒の間であるとしか述べることができない。
そうすると、30mの電車が60mの距離を運動したときの所要時間についても、その電車が起点を出発したのが午前11時59分59,25秒から午後0時0,75秒の間であり、終点に到達したのが午後0時2,25秒から午後0時3,75秒の間なのであるから、その所要時間は1,5秒から4,5秒の間であるとしか述べることができない。
つまり、この「1,5秒から4,5秒の間」とは、起点や終点の通過時刻における計3秒の幅のことに他ならず、すなわち30mの電車が秒速20mで60mの距離を運動したとき、その所要時間の測定値は、質点が60mを運動したときの確定される3秒という測定値に比して100%ぼやけているために、その値は1,5秒から4,5秒の間であるとしか述べることができないのである。
そこでさらに、運動距離を120mに設定した場合は、時刻の幅計3秒に対して確定される時間が6秒であるから、3/6=0,5となりそのぼやけ率は50%となる。そうすると、確定される所要時間が6秒であり、その測定値が50%ぼやけているということは、確定される6秒という時間に、その50%である計3秒間のぼやけが生じているということであって、この場合の所要時間は4,5秒から7,5秒の間であるとしか記述されないということになる。
一方、ひるがえって電車の運動距離を東京大阪間の約500kmに拡張して考える場合、起点終点における時刻の幅の計3秒に対して、質点が運動(変位)した場合の確定される所要時間は25000秒であるから、この場合の所要時間は24998,5秒から25001,5秒の間ということになり、そのぼやけ率は
3/25000=0,00012ですなわち0,012%となる。そうすると、30mの電車が運動したときのその所要時間の測定に際しては、その運動距離をより長く設定すればするほどそのぼやけ率は減少し、その確定度はより高くなるということができる。
またこれらとは逆に、電車の長さと運動距離が同一の30mの場合は、時刻の幅計3秒に対し確定される所要時間が1,5秒であるから、そのぼやけ率は200%で所要時間は0秒から3秒の間ということになり、さらに運動距離の方が電車の長さよりも小さく、たとえば30mの電車が20mの距離を運動したなどという場合は、時刻の幅3秒に対して確定される所要時間が1秒であるからぼやけ率は300%で所要時間は-0,5秒から2,5秒の間ということになる。
またこれらとは逆に、電車の長さと運動距離が同一の30mの場合は、時刻の幅計3秒に対し確定される所要時間が1,5秒であるから、そのぼやけ率は200%で所要時間は0秒から3秒の間ということになり、さらに運動距離の方が電車の長さよりも小さく、たとえば30mの電車が20mの距離を運動したなどという場合は、時刻の幅3秒に対して確定される所要時間が1秒であるからぼやけ率は300%で所要時間は-0,5秒から2,5秒の間ということになる。
したがって、このような運動物体の長さとその距離の設定が同一、ないしはより短いという場合には、その運動を運動として記述することがよりより困難になるということであって、このような場合は、もはやその対象物体の運動をよりマクロからの視点で記述することは不可能であるものといえる。すなわち、この場合には座標系の規模を拡張して相対的に物体を質点化するのではなく、逆に規模を縮小化して物体を非質点化しているのであるから、もはやいかなる運動の記述はなされないのである。
そして、上記のような電車が観測者の面前で運動していて、すなわち対象物体と観測者がより間近で卑近な距離にあってその現実の長さが無視できないような場合には、その物体の長さを直接消去して質点化する方法が有効であるのに対して、たとえば地球は太陽系において秒速30㎞で運動する、などといったその速度がより高速度で運動の規模がより広大である場合は、自動的に間接的な質点化が行われているものといえる。