ニュートン力学以来、いかなる運動物体はすべて質点として表される。質点とはあくまでも力学上の概念であって、それ自体が現実の存在ではない。当初、ニュートン自身もこの非現実的な概念をめぐって、様々に考察を重ねた様子である。
ちなみに太陽系における地球の運動も、ニュートン力学によってほぼ完璧に記述することができるものの、地球は地上で生活する我々人間からみれば巨大であって、それは決して点ではない。しかし、たとえば太陽の大きさを1mの球と仮定したとき、地球はそこから100m離れた場所の1cmほどの小さな球であって、このような広大な範囲における地球の運動は、それを近似的に点と見なしてもなんら差し障りはないということから、今日では質点とは、物体の運動を数学的に記述する際の理想概念と考えられている。
ところが、この理想概念としての質点であるが、地球は人間からみれば巨大であり、太陽系における一運動物体としては点でもあるというのは、物体の運動というまったく基本的な運動学の範疇においても、よりミクロからとよりマクロからの二つの視点による不確定性な関係の仕組みは深く関わっているものと考えられるのである。
たとえば、太陽は銀河系において運動しており、地球は太陽系内で運動している。その地球上ではジェット旅客機が運動し、ジェット機内では子供がピンポン玉を放り投げていたとする。そうすると、そのピンポン玉は質点としてジェット機の中で運動し、ジェット機は地球を不動の座標系として運動する質点であり、地球は太陽系を運動する質点である。
この場合いずれの個々の存在は、場合に応じて座標系でもあれば運動系でもあるわけで、一個の小さなピンポン玉ですらも、その中の気体分子の運動を考えるときには一つの座標系と考えてよい。ということは、地球なら地球が一つの質点であるのか、巨大な座標系であるのかは、それを観測する際の観測者の視点のあり方が決定していることになる。
すなわち、太陽系というより広大な空間座標からみれば、地球は対する運動系の質点である。したがって、質点としての地球とは、よりマクロからの視点の観測でなされる。一方、より小さな運動するジェット機からみれば、その運動とは地球を座標系としているわけで、これは地球に対するよりミクロからの視点の観測といえる。
そうすると、この場合のよりマクロからの視点というのは、座標系の立場(太陽系)からみた運動物体(地球)の観測であり、他方よりミクロからの視点の観測とは、運動物体(ジェット機)から見た座標系(地球)の観測であるといえる。
ところで、ガリレオ以来の相対性原理によれば、互いに等速直線運動を行っているようにみえる二者の慣性系があるとき、そのどちらが運動系であるのかは絶対的には決定することができない。いかなる慣性系は対等であって、たとえばAからみたBが右方向へ速度vで直進運動してみえるのであれば、逆にBからみたAは左方向へ同様に速度vを有して観測されるわけで、そのABのどちらが優先的に運動系であると決定することはできない。
そうすると、このような運動の相対性を考慮するならば、たとえばジェット機が大地に対して等速直線運動を行っているとき、ジェット機内の観察者によれば自らの系は静止していて、逆に長大な大地(地球)の方が運動しているとか、あるいは、東京から大阪へと西へ向かって運動する電車内においては、電車自らは静止していて、対する東京大阪の長大な大地の方が東へ向かって運動しているのだ、などといった記述も決してあやまりではないということになる。
しかし、より長大な大地に比べるならば、電車はほとんど点にも等しい存在であって、この場合に大地を運動系として扱い、ほとんど点に等しい電車の方を座標系と見なすというのは運動学的にもおかしな話である。
そこで、このような運動の相対性という問題に、あらためて観測の二つの視点のあり方を考慮すると、電車内からみると電車が静止系で、対する大地が運動系であるというのは、実は視点のすり替えに他ならないということがいえるのである。
たとえば、全長30mの一両の電車があって、これが東京から大阪までのおよそ500㎞の距離を運動しているという場合、電車は長大な東京~大阪の系を座標とする運動物体であるといえる。ところが、その途中電車が暗いトンネル内に入ったときには、外の長大な大地や一切の景色は観測されないが、かわって電車の中が明るくなる。
そのとき、トンネル内に固定された一個の光る電球がみえたとすると、その電球は電車の先端から後端に向かって運動しているようにみえる。そうすると、電車内の観測者にとっては、トンネルに入る以前に外の景色をみているときには自らが西へと向かって運動していたものが、トンネル内では電車の30mの系を一つの電球が東へと運動してみえたことになる。
あるいは、一個の電球に限らず、東京大阪の系に固定されているところの線路ぎわのいくつもの電柱も、電車の先端から後端に向かってまさに飛ぶように運動してみえるであろうし、立ち並ぶいくつもの木々や、ときにはプラットホームにたたずんでこちらを観測している人々など、彼らはそれぞれ後方へ向かって飛ぶように運動してみえるはずである。そしてこのとき、電車内の観測者によれば、自らは静止していて、むしろそれら個々のポイントの方が東へ向かって運動してみえるのである。
つまり、電車内の観測者が外の景色をみて、それらを連続した長さを有する大地として見るのではなく、その大地を具体的に構成しているところの個々のポイントに注視しているときには、それらほとんど点に等しい個々の各ポイントは、電車に固定された座標系を東へ向かって運動しているのである。
あるいはまた、逆にプラットホームで通過する電車を観測している、Aなる観察者がいたとする。そこで電車の窓の中にみえるBなる一人の人物を注視するならば、その一つのポイントとしてのBはプラットホームの起点から終点に向かって(西へ向かって)運動しているようにみえるし、同様に電車の先端部分や各部分部分のポイントを観測する場合には、それらはプラットホームの系を西へ向かって運動したようにみえる。
しかし、Aの面前を連続した30mの長さの電車が通過して行くのを観測した場合には、Aは自らがプラットホームに固定されていることを忘れてしまうどころか、A自身があたかも電車の先端から後端に向かって(東へ向かって)運動したかのように思えてくるのである。
ということは、電車内から大地を観測するBであれ、大地(プラットホーム)にたたずんで電車を観測するAであれ、いずれにしてもその対応する系を連続した長さを有する系として観測する場合と、その系を具体的な個々の各ポイントとして観測する場合では、観測の対象は本来同一の系でありながらも、その観測の視点は異なっているのである。
そこで、30mの電車と500㎞の大地の対応関係を考えるならば、30mの長さの電車そのものは決して質点といえるものではないが、東京~大阪といったより長大な系に比較するならば、その30mはほとんど点に等しいものであって、その点にも等しい電車は長大な大地を座標系として西へ運動する系であるといえる。
一方、長大な大地の中の線路際の電柱や個々の木々などといった、それらの各ポイントを車中のBが観測する場合は、そのポイントは30mの電車の先端から後端に向かって運動している系なのであり、この場合には電車の方が対する座標系になっているのである。ということは、電車内のBによれば、外の長大な大地の風景を連続した長さを有するものとして観測している場合には、B自らが質点であるところのよりミクロからの視点なのであるが、他方個々のポイントに着目して観測しているときには、自らが座標系であるところのよりマクロからの視点に切り替わっているのである。
したがって、電車内の観測者に限らず、対応するいかなる二者の慣性系がある場合に、そのどちらが運動系であるか否かは、その観測者の視点のあり方が決定していることになる。
すなわち、互いに等速直線運動をしているようにみえる二者は相対的であるからといって、大地に固定された観測者Aからみた電車が運動系であるならば、同様に電車内のBからみた大地も運動する物体にみえるのかと言えばそうではない。具体的かつ実際に電車内の観測者Bからみて運動する物体があるとしたら、それはもはや長大な大地ではなく、大地の中の個々の存在であるところの、一本の木なら木といった各ポイント(質点)なのである。
そうすると、電車のBが長大な大地を観測するのと個々のポイントを観測するのとでは、観測の視点のあり方が異なるのであるから、電車対大地の対応関係の場合に、電車のBは自らが運動系であるところのよりミクロからの視点にあるにもかかわらず、それでもなおかつ大地全体が運動していると主張するならば、これは視点の切り替えならぬ視点のすり替えと言わねばならない。
すなわち、電車のBがより広い視野において長大な大地を観測しているときには、その固定された長大な座標系に対して、自らはよりミクロからの視点の運動系の立場にあるはずである。ところが、それでもなお電車が静止していて大地の方が運動しているようにみえるというのは、それこそ近傍に見える個々のポイントと長大な大地をすり替えて述べているだけの話であって、実際に外の風景の中で東へ向かって運動しているものとは、常に個々の木々であったり電柱であったりするのである。この場合の電車内のBの視点は、自らが座標系であるというよりマクロからの視点に切り替わっているのである。
したがって、確かにいかなる慣性運動は、相対的であって絶対的ではないとはいうものの、だからといってジェット機に対して巨大な地球が運動したり、電車に対して大地全体が運動するということはあり得ないのである。はたして、そのどちらが運動系であるか否かは、常に観測者の視点のあり方が決定しているといえる。