リリパットに漂着したガリバーは、そこの住人たちが異常に小さく、あらゆる生き物、建物など、その一切が自分の故郷よりもすべて極端に縮小しているものとして観測する。一方、リリパットの住人からみれば、逆にガリバーのほうが巨大な人間として観測される。すなわち、リリパット人によれば自らの大きさは常に不変であって、自分たちが小さいのではなく逆にガリバーのほうこそが異常に大きいのである。
この場合、この二者の観測はどちらか一方だけを優先的に正しいものとすることはできない。つまり、リリパット人が縮小化しているのか、あるいはガリバーの方が拡大化しているのかは相対的な問題であり、そのどちらか一方だけを絶対的に正しいものとして決定することは不可能である。
ならばそこで、ガリバーからみるとリリパット人の方が縮小してみえるという場合に、リリパット人からみたガリバーも同様に縮小してみえるとしたらどうであろうか。これは明らかな二律背反であり、前者の観測を正しいものとするならば、後者は必ずやまちがった観測のはずである。
あるいは、なおも両者ともにそれぞれが正しい観測であるとするならば、ガリバーからみたリリパット人の縮小と、リリパット人からみたガリバーの縮小という二者の観測は、なんらつながりのないそれぞれ独立した別の場面での観測であるか、ないしは前者のガリバーと後者のガリバー、および前者のリリパット人と後者のリリパット人は、決して同一の人物ではないと言わざるを得ないのである。
すなわち、なんらかの相対する二者の観測において、AからみたBが収縮しているという場合には、BからみたAは必ず拡張して観測されるはずであり、仮にBからみたAも同様に収縮しているというのであれば、当初の「AからみたBが収縮している場合に・・・」という設定そのものが成立していないことになる。当初の設定によれば、AB二者の客観的な関係は、BはAよりも小さく(B<A)、AはBよりも大きい(A>B)のであって、AからみたBの収縮そのものが、相対的にBからみたAの拡張そのものを説明するものでなければならない。
したがって、AからみてもBからみても互いに相手が収縮しているという場合には、そこには不条理なパラドックスこそ現出するものの、その二者の観測は決して相対的であるとはいえないのである。
ところで、ニュートン力学においては、時間と空間は均一で普遍的かつ絶対的である。たとえば、地球上で1秒が経過したという場合、これは宇宙のいかなる場所でもまったく一様に1秒という時間が進んでいくわけで、また1mという物差しの長さはいかなる他の系においても普遍に1mなのであって、常に固定された基準としての絶対性を有する。
一方、アインシュタインの特殊相対性理論によると、不変に固定された基準となるのが光速度であり、かわって時間と空間は相対的なものとなる。すなわち、特殊相対論の結論によれば、運動物体の速度が大きければ大きいほど、その長さはローレンツ変換式に従って収縮し、時間は遅くなる。この場合の時間と空間は一様なものではなく、対応する系の速度の違いによってそれぞれ異なる多様なものであるということになる。
ちなみに、高速度のミュー粒子の寿命は長くなっていることが確認されているが、これは相対論における時間の遅れが、現実のこととして実際に起きている証拠といえる。そしてミュー粒子の寿命が、その速度の違いに応じて実際に異なるということは、そのミュー粒子と、それを観測する地上の観測者の時間の進み方が現実に違っているということであって、たとえば相対するAB二者の時間の進み方が実際に異なるという場合、AからみたBの時計が遅れているのであれば、逆にBからみたAの時計はより早く進んでいるものでなくてはならない。
つまり、ミュー粒子の時間の進み方が事実として遅くなっているのであれば、その遅れを観測した観測者の時計の進み方は、ミュー粒子からみると相対的により早く進んでいるものでなくてはならないのである。
あるいは、仮にミュー粒子からみた観測者の時計も遅くなるというのであれば、この場合のミュー粒子の寿命を測定した際の観測者の時計と、ミュー粒子からみたときの観測者の時計は、決して同一のものであるはずがない。ところが、このような本来の具体的な時間の相対性は、次のような問題提起によって混乱を来すことになる。
たとえばAからみたBが等速直線運動であるとき、逆にBからみたAもまったく同様の等速直線運動であるから、ABの二者はまったく対等かつ同等な慣性系であるといえる。この二者が同等であるというのは、ABそれぞれの系における物理法則は同一であるという意味を持ち、この二者に限らずいかなる慣性系の物理法則は普遍にして同一である。
ならば、そのAからみたBの時計が遅れているという場合に、逆にBからみたAの時計はどうなっているのかと言えば、この場合においては時間が早く進むのだとはいえない。なぜなら、AのBに対する観測も、BのAに対する観測も、両者はまったく対等な慣性系どうしの観測であって、AB両者の観測における設定条件は同一であるにもかかわらず、その観測結果の内容が同一にならないというのもおかしな話である。したがって、AからみたBの時計が遅れているというのであれば、BからみたAの時計も同様に遅れているものと結論しなくてはならない。
すなわち、ガリレオ・ガリレイ以来の相対性原理によれば、いかなる慣性系は同等であり対等である。そうすると、AからみたBについての観測と、BからみたAについての相互の観測が、その物理的な内容において異なるものであるならば、AB二者の対等な関係は崩壊することになる。そこで、この対等な関係をあくまで保持しようとすると、そこには前述のようなパラドックスが引き起こらざるを得なくなる。しかし、ここでこのパラドックスを論ずる以前の問題として、上記の論理には根本的な矛盾があることを述べなくてはならない。
というのは、そもそもAからみたBの時計が遅れているということは、具体的にAの系における時間の進み方よりも、Bの系における時間の進み方のほうが遅れているということであり、少なくともAB二者の系における時間の進み方は厳然として異なっているということに他ならない。そうすると、ABの時間の進み方が異なるにもかかわらず、それでもこの二者が同等である、などということがいえるであろうか。相対性原理が主張するように、対応するABの二者がそれぞれに同等な慣性系であり、純粋に対等な関係であるならば、両者における時間や空間のあり方が異なるなどということが起り得るはずがなく、逆に言えば時間・空間のあり方が異なるこの二者の系は決して同等ではない。
確かに、ABが同等な慣性系であるとき、AからみたBの速度もBからみたAの速度もその大きさはまったく同一であり、両者の運動形態も同様な等速直線運動であって、この場合の二者それぞれの観測結果は同一である。しかし、この同一というのは、互いに相手の時間が遅れて観測されるというような同一性を述べているわけではない。つまり、AもBも同じように互いに相手が遅れているというのは、同一であるどころか互いに相手の観測結果を否定しているのである。
ということは、ABが同等な慣性系である限りにおいては、両者の系における時間や空間のあり方もまったく対等に同一であるべきであって、そこには当初から、AからみたBの時間が遅れているというようないかなる違いがあってはならないし、もとより、互いに相手の時間が遅れているというようなパラドックスも、あり得るはずがないのである。したがって、実際にBの時間が遅れているというのであれば、そのBはAと同等であるべき慣性系ではないはずであるし、本当にABが対等かつ同等な慣性系であるならば、この二者の時間・空間のあり方にいかなる相違はないはずである。
ちなみに、電荷やスピン角運動量、磁気能率といった、その質量以外は電子とまったく同一の性格をもつミュー粒子は、はたしてこれが純然たる慣性系であるといえるであろうか。たとえばスピン角運動量を、古典論的に有限な広がりをもつミュー粒子の自転であるものとして解釈するならば、これは明らかな回転系である。(もっとも、レプトン属の基本粒子であるミュー粒子が固有の大きさをもつということ自体が、すでに特殊相対論の根幹に著しく抵触するのではあるが・・・)
いずれにしても、これがなんらかの非慣性系であるならば、観測者との対等な関係は崩れ、両者の時間のあり方にもそれなりの非対等性が現れると考えてよいはずである。
前述のように、ガリバーからみたリリパット人が縮小化してみえるのであれば、対するリリパット人からみたガリバーは必ずや拡大化してみえるものでなければならない。そして、その異なる二者の観測のどちらか一方だけを絶対的に正しいものとは決定されないということが、すなわち相対的であるという意味のはずであり、時間や空間が相対的であるということは、二者における時間・空間のあり方がニュートン力学のように一様ではなく、現実に異なっているということのはずである。
すなわち、AからみたBが収縮であるならばBからみたAは拡張であるというような、つまりABの二者が決して同等であるとはいえない関係のことをこそ、時間・空間に関する相対的関係というのであって、互いに相手を収縮しているといった二律背反を不可避とするような理論は、決して本来の相対性を述べるものとはいえないはずである。
ならばここで、あらためて問題となるのがいわゆる[同時刻の相対性]である。なぜなら、慣性運動を扱うところの特殊相対論において、対応する系の時間の進み方が遅れ、同時にその長さが収縮するとする論理的根拠が、この同時刻の相対性にあるからである。しかし、互いに対等であるはずの相手の時間と空間が、それぞれにローレンツ変換されることを促す根本的要因がこの同時刻の相対性にあるのであれば、その一連の思考実験には、やはりなんらかの矛盾が潜在しているものと考えねばならない。
たとえば、同時刻の相対性をミンコフスキーの4次元時空の中で追考していくと、一個の電子は大きさのない点粒子でなくてはならず、これに有限の広がりを与えて考える場合には、決して犯してはならないはずの因果律が成り立たなくなる。ところが一方で、この相対論的な因果律を成り立たせるべく、電子を広がりのない点粒子であるものとして考える場合には、今度は場の量子論におけるその自己エネルギーが無限大になってしまう。
ということは、電子のエネルギーが無限大になるという事態を回避すべく、これに有限な広がりを与える場合には因果律が崩壊し、逆に因果律を成り立たせるべく、電子を広がりのない点とする場合には自己エネルギーが無限大になってしまうのであるから、これは決定的なジレンマであり二律背反であると言わねばならない。
すなわち再度述べると、電子が点であるとする場合には因果律は成り立つがそのエネルギーについては無限大の問題が起こり、逆に電子に広がりを与えて考える場合にはエネルギーは有限値となるが因果律は崩壊するのであるから、一個の電子はそれがはたして点であるのか否かをめぐって、決定的な板挟み状態にあるということになる。したがって、この二律背反においては、その二者の主張のどちらか一方は必ずまちがっているということに他ならず、両者がそれぞれともに正しいということは、絶対にあり得るはずがないのである。
ならばそこで、実際の電子はどうなっているのかと言えば、これは現実に511000eVなる有限なエネルギーを有しているのであるから、電子はその大きさについても、当然有限の広がりを有するべきものでなくてはならない。つまり、実際の電子は点粒子ではないからこそ、一定の有限なエネルギーを有しているのであって、電子が本当に大きさの無い点であるならば、そのエネルギーは無限大になっていなくてはならない。したがって、実際に有限なエネルギーをもつところの電子は、当然一定の大きさをもっているはずである。
ところがそれにもかかわらず、特殊相対性理論によると、因果法則を破る大きさをもった電子はあってはならないのであるから、相対論的にはあるはずのない大きさをもつ電子が現実には存在しているとするならば、このこと自体がその論理を否定していることになり、ひいてはその大もとにある同時刻の相対性には、なんらかのまったく根本的な矛盾が潜在しているものと考えざるを得ないのである。
さて本論は、もともとは量子論におけるいわゆるコペンハーゲン派的確率解釈に対して、従来のものとは異なるかたちの反駁を試みようとする意図をもって立ち上げられたものである。したがってその反駁の過程においては、当初論者には、特殊相対性理論はより有効な武器となるであろう、むしろ鉄壁かつ完璧な理論であるものと思われたのである。
ところが、量子論を語る上では避けては通れない観測の問題を、なかば哲学的ともいうべき場面から掘り起こしていくと、そこには期せずして相対論のもたらした幾つかの基本概念とそぐわない論理が表出してくるのである。
結果的に述べるなら、ひにくなことにアインシュタインがあれほど嫌っていた量子論の確率解釈は、なによりも相対論の根本的変更なくしては論破しえない構造になっていたのである。そして、特殊相対論のまったく根本的な変更を促すのが、いかなる力学やいかなる物理理論にも現前すべき、観測そのものについての論理的かつ構造的な考察なのである。